ビッグバン〜コンパイル退社
137億年、ビッグバン
1982年、コンパイル設立。コンピュータショップにたむろしていたメンバーで設立。最初のソフトは業務用ソフト「イタリー亭」。近くにあった同名の顧客管理ソフト?
ファミコンの頃がゲーム業界一番ぼろかった。当時は納期がなかった(笑)
1987年、初の企画職としてコンパイル入社。スケジュール管理する必要が必要だけど、スケジュール管理というと人が来ないから企画と言って獲得した。当時のコンパイルはマンション2部屋を借りて、片方の扉を開けると社長の奥さんが出てきた(笑)
1988年、組織編成。スポンサー、社長、米光、メンバーという構造の確立。ただ、当時のテストプレイヤーはそこらへんの大学生、専門学生だし、経理は社用の奥さんだったくらいには緩かった。
1988年〜1990年まで、一年に3本のペースで開発
1990年、スーファミ発売。ドラクエ4、FF3。当時のコンパイル新人研修の「コンパイルの歴史」ビックバンから始まってコンパイルの未来を語る。目標1.プラスチックを溶かす。目標2.ロケットを打ち上げる。目標3.忘れた。
1991年、ぷよぷよ発売。最初は『ひとひと』人類愛を目指していたが、プログラマーから「同じ肌の色しか手をつながないんですね」と言われてぷよぷよに変更。メインの仕事以外に、放課後のノリで作っていた作品。
FF1('87)12名、FF2('88)12名、FF3('90)41名、FF4('91)64名
1992年、コンパイル退社、スティング入社。社長との喧嘩もあり、ファクトリー化に耐えられなかった
ファクトリー化の歴史
・1982年。グラフィック・PG・SG
・1987年。上記+企画監督
・1991年。上記+脚本、広報営業、連携先
スティング入社
1992年。年に二本。1993年。年に一本。
1996年。3年かかってトレジャーハンターG。エグゼクティブプロデューサー坂口、プロデューサー/企画監督米光、プログラマー(イベント、バトル、etcへ分業)、グラフィックス、サウンド、テストプレイヤー(30名3交代制)、モデラー、3DCG、合計150名のプロジェクト
1999年。BAROQUE発売。企画監督脚本を担当。
2001年。スティング退社。カメラ付メール端末対応のラブeメール開発
2002年。「ネットワークでコミュニケートしながら1回5分で遊ぶネットゲーム」の企画に対する反応
・そんなの誰もやらない。今はMMORPGだよ。MMORPGなら3億出せるよ
・そういうのは儲からないから上に通せない(億に届かないと見てもらえない)
このときの憤りが『プロジェクト攻略法』を産んだ