総合討論

韓国でもアーケードゲームが80年代にあったのか?

(井上)日本製。韓国製は基本ない。べーマガ・学研的な雑誌による個人制作がゼロ年代に花開いた?

欧州70,80年代にコンシューマ機の開発あった?

(井上)70,80年代にコンシューマの開発があったとは聞いてない。誤解を生んだとすれば謝ります。
(参加者)ゲーム機はESが出していた。ゲームを作って自分で遊べるPCがあった。
(井上)MUD(マルチ・ユーザ・ダンジョン)はイギリスであった。
(参加者)イギリスではケンブリッジにある会社のBBCが作っていた。プロシージャ系ではよく引用される。

ゲームの多くは経済的理由で決めてない。

(質問者)ゲームする動機として、経済的動機はないのでは。ボーダーブレイクで付き5〜6万使う人もいる
(井上)これから煮付めていくとすると、価格への主付けとは別の重み付け、どちらが強いのかトータルでの影響を見せることができればと思い舞うs。ご指摘ありがとうございます。

開発規模が大きくなると、ゲームが作りづらくなるというが本当か。

(米光)直感的にそうなる。人数少ないと仲良くできるけど、100人いると誰だお前となる。派閥ができたり、ゲーム開発でない組織論が必要とされる。

コンパイル開発者でユニークな同人ゲーム作っている人が多いのは

(米光)えぇ?(笑)DISC STATIONがファクトリー化している中でも小さいゲームを作る機会を作っていた。あと、後半に人多く入れたので、確率的に多いだけ

日本のゲーム市場における任天堂以外の専用機、たとえばぴゅう太をどう位置づける?

(樺島)日本は研究してないです。記憶から話をすると、メディアが雨後の竹の子のように勃興したあとで淘汰される、そこにどういう決めてがあるのかが興味あるところです。

コレコビジョンが一緒になくなったのは?

(樺島)前からコンピュータモジュール出す出す言ってたが、いつまでも出なくて国の機関に怒られたり。コレコ、マラルはシェアが取れなかった。不利な環境を取り返すだけのイノベーション起こさなかったので共倒れ。

他の講演者が話された中で何かあれば

(井上)樺島先生の話でリテラシーの話があったが、85年86年にリテラシーあるユーザがいたのか。小学生だし。TV、ゲーム雑誌の動員で動くようなユーザ。ファミコンクソゲーで有名どころあるし、ユーザリテラシで説明するのも一つの視点だがマリオブームで徳間書店が攻略本、ゲーム雑誌を出して85年86年に専門誌ができて流通の中間的部分としてこれいいじゃない程度のフィルタでうまくいったという仮説はどうか
(樺島)まさにインターネットない世界では業界紙は大切。それによってコンテンツの質を探って選択してゆくことが非常に重要。それが増えて細分化し、リテラシが上がる。
(米光)ATARIショックのとき、専門誌は一誌?
(樺島)不定期発行から定期になった。80年代後半から雑誌が出てきたが、80年代末には売れなくなるのでタイミングが遅かった。
(井上)日本がゲーム雑誌を育てられたのは何故か。
(小山先生?)日本のゲーム雑誌の出版仮定。ドルアーガ、マリオの攻略本からファミコンマガジンへ。カタログ情報ではなく、後略が先にあった。ゲームの中身を吟味するのはずいぶん後の話。ドラクエ2やゼルダの後略情報で強い情報選別をしていた。80年代の後半に今の形の雑誌の形になる。
(樺島)ゲームのレベルの違いも。ATARIには攻略本いらない。84年のアメリカの雑誌をミルとレビュー中心で業界全体の動きとか多い。アメリカもショックがなければまた違う動きがあったと思う。
(吉田)ジャンプ情報局の後押しがあったのでは。
(井上)日本の場合アニメ・マンガ雑誌があり、そのリソースに乗っかるかたちで流通できた。一方、アメリカはハリウッドがある。情報流通が弱かったのか、利用できなかったのか。
(樺島)ATARI後半は映画ライセンスが多い。親会社が押すケースも……
(米光)ない。ゲーム作っている人間としてない。所詮ゲームとして見ている時代。作らせてやっている程度もなかった時代。
(樺島)売り手側の広告使ってE.T.死んだ。第三者なり、信頼できる人でないといけない。
(米光)日本は任天堂様が作らせてくれなかった。マリオでも最初はそんなに作ってない。あの当時の雑誌がガイドになっていたか。逆ガイドにはなっていたかもしれない。
(吉田)当時はジャンプ情報局が好き勝手辛辣なことを言っていた。広告受けると非難できない
(米光)情報もらわないと攻略法をかけないのでしがらみができる
(樺島)アメリカはバブルの麻薬の部分もあった。PACMANVCSの累計売り上げより多く作って売り切った。アメリカに進出した任天堂は自身で雑誌『ニンテンドー・パワー』を出した。子どもにわかりやすく紹介していた。
(米光)任天堂の存在がでかい。ちゃんとゲーム出しているのは大きい。特に80年代。
(井上)実感としてそうなんだろうとは分かる。任天堂がそういう会社になれたのは何故。ATARIショックの教訓か。任天堂のソフトがクオリティ高いものを作っている仕組み、プロセスは。
(米光)任天堂はトランプがあるから大丈夫なんだ。そこが売れているから初期売れなくても、余分の感覚があり、無理してまで一発当てなければならないという思いがない?
(樺島)任天堂=メジャー。自分でコンテンツ管理、流通管理。混乱期でビジネス完成させたポジション。任天堂が存在したからこそ、ユーザのリテラシがある。次はメジャーの誕生で研究しようかと思っている。任天堂は山内さんすごいで語れてしまう。属人的か、ポジションか、ビジネス方法か
(米光)ゲーム作る能力よりゲーム環境を作る能力。
(吉田)外国でゲームを売る企業のターゲットは?
(樺島)子ども向け。ATARIショックの崩壊後に「世界初のアダルトゲーム誕生!」とビルボードで一代広告打つアダルトゲームがある。
(吉田)日本はアーケード(アダルト)と任天堂(子ども)、二つの客層がスタートラインで存在した。麻雀、教育ゲーム、かけごと、普通のゲーム、産業として色々狙いやすかった。
(米光)僕は僕が遊びたいの作ってた。自分幼かったのでキッズになっていた。キッズだけではないのは大きかったかも。ファミコン出た当時大学生やってたので。そこがリテラシという面で馬鹿にできない
(樺島)アメリカでもアーケード移植は王道。アステロイドとか。クリスマス商戦=親が買う、子どもがこーゆーものが欲しいという認識があったのでは