リアライズ 批評と感想のはざま


水無月徹高橋龍也という往年の名コンビが久しぶりに美少女ゲーム業界に投下したソフト。大作(デモンベインだっけ?)にぶつかっていたので回避したが、今年PS2で発売された移植版を購入した。世間の評価は決して高くないが、「プレイヤーが意中の女性をゲットするということが最終目的であり、”彼と彼女”以外は切り捨てられた世界に主人公が存在する」という、彼ら自身が『To Heart』で確立した美少女ゲームの鉄則を否定した意欲作と言えよう。


特色の第一は、本作品の全シナリオにおいて、主人公である松浦亮の恋人はどこまでも、ゲームの初期設定において恋人という立場に立っている芦田蛍ただ一人であることだ。


たとえばヒロインの一人である稲葉倫は最後まで松浦亮と芦田蛍の恋愛関係が続くことが望む。これは稲葉倫が作中で描き、大切にしている絵が松浦亮と芦田蛍が一つ屋根の下で暮らしている姿を描いていること、また、「こんなところ(=松浦亮と稲葉倫の二人きりの世界)にいていいのですか」という台詞に現れている。また芝浦八重というヒロインは専ら母親的存在として描かれ、恋愛対象として思われていないことは、八重シナリオの最後で松浦亮が芦田蛍に送る「ごめん、ちょっと遅くなるけど必ず迎えに行くから」というメール(松浦亮は携帯が苦手で数文字のメールを送るのがやっとなのだが、このメールに関しては例外的に長い文章となっている。つまり、それだけ心がこもっているということだ)から確かめられる。実はヒロインはもう一人いるのだが、主人公には彼女「攻略」は不可能である。以上のことから、プレイヤーが「攻略可能」なキャラクターは存在しないといってよい。


特色の第二は、セカイ系を否定していることだ。これは作中に登場する伏見修二と麻生春秋の存在が大きい。


人間の自意識が具象化した『エゴ』を操る人間は、容易に『エゴ』を持たない人間の意識を操作できてしまう。このため、『エゴ』を用いて自らの欲望を満たそうとする人間は後を絶たない。主人公の友人である修二はこの状況に憤り、非合法と知りながらPKとして『エゴ』を悪用する人間を断罪する。一方の春秋は『エゴ』を操れない人間のことは気にもとめないが、混沌とした『エゴ』社会に秩序をもたらそうと主人公に接近する。『エゴ』社会に秩序をもたらすために修二に味方するのか、それとも春秋に味方するのかが本作品の大きな分岐点となっているがゆえに、「彼と彼女」の楽園から世界の果てに直結するセカイ系ではない世界を描くことが可能となっている。


以上のように意欲的な作品ではあるのだが、水無月徹の絵柄が変わってしまったというだけで必要以上に叩かれてしまっている。残念なことだ。


(2005年12月16日の投稿を一部修正して再投稿)