はじめに
以下の文章はネタバレになっているので未プレイの人は読まないことをお奨めする。
智代アフターは前作CLANNADで結ばれた朋也と智代の同棲生活を描く第一幕、智代の弟・鷹文、捨て子のとも、鷹文のかつての恋人河南子が加わった五人の疑似家族的生活を描く第二幕、ともと母親の関係を回復させる第三幕、永遠の愛を提示する第四幕という、全四部構成になっている。
本作が通常のエロゲとは大きく違っている点は、通常のエロゲでは主人公キャラが気になる女性をゲットした時点で物語は終わることに対して、通常のエロゲのその後、女性と結ばれた後の物語を描いている点だ。本作品の源流であるCLANNADの主眼となった家族の再生に加えて、智代アフターではコミュニティの再生が加わり、後述する展開によって通常のエロゲの構造が否定されることとなる。それでは、各部を具体的に見ていこう。
第一幕
第一幕ではほぼ毎日がHシーンと日常シーンの繰り返しで構成されている。Hシーンによりユーザのエロゲに対する欲求を満たした上で、物語の起点としてエロゲにおける愛から自然に導き出される「その後の顛末」を端的な形で示している。 それは、主人公が気になる女性をゲットして物語は終わり、というありがちなエロゲーの終末に対するアンチテーゼにも見える。
第二幕
第二幕では智代を中心とした疑似家族が描かれる。幼稚園児のともが舞台に加わることにより、智代は「ママ」、朋也は「パパ」、鷹文は「おにいちゃん」、河南子は「おねえちゃん」という家族における役割づけがなされる。ちなみに、ここでの家族像は一家の働き手である父親を専業主婦である母親が支えるという古めの家族像に近いものとなっている。
朋也を中心とした疑似家族とは別に、第二幕ではもう一つの疑似家族が登場する。それは、過去に存在していたとされる、河南子の父親を中心とした疑似家族だ。こちらは鷹文が本物の自分の家族を優先したことで、「現在」には崩壊してしまった疑似家族だ。この過去の疑似家族が形を変えて、現在の朋也を中心とした疑似家族として再生されるなかで、過去の疑似家族の一部―鷹文と河南子の仲―が復活する。
その日を境に、ともを捨てた母親探しが始まる。作中には「このままでいいじゃないか。ともがうちにいたって悪いものか」といった意味の台詞があるように、母親探しは未来における疑似家族の崩壊を示している。作中の疑似家族は心地よい幸せな空間だが、経済的な地盤その他諸々に脆弱さを持つ空間、ともの「けんかしちゃだめー」「すきならちゅーして、ちゅー」により形式的に維持されていた空間だ。鷹文と河南子の仲が復活したことにより、疑似家族はその役割を終え、物語は第三幕の本物の家族の復活へと向かう。
第三幕
ともの母親が暮らす山奥の村で第三幕は展開される。閉鎖された村の一角に存在する廃校で、ともの母親(有子)がともを捨てた理由が明らかにされる。不治の病におかされた有子は、自分の死ぬ姿をともに見られたくないがために、ともを捨てたのだ。有子は語る。人並みの幸せも与えられなかったのに、これ以上辛い思いをさせなくていいではありませんか。疑似家族を維持しようとする智代は、母親と一緒ではともは幸せになれない、ともは私と一緒に暮らすべきだと主張する。
対する朋也の答えは豊かとはいえない。「ともは母親と暮らしたいと考えていると思うんだ」「本物の家族と一緒に住むのはあたりまえじゃないか」など、素朴な家族神話が語られる。
確かに、ともは母親と一緒にいたいと思っていて、作中でともは母親と一緒に暮らすことで幸せになった。けれども、一緒に暮らすことが不幸にしかならない家族もある。朋也自身、崩壊した家族にいて、崩壊した家族の苦しさを知っているという設定だ。だというのに、彼は純朴に本当の家族という象徴を信じている。
家族崇拝に次ぐ、第三幕のキーワードはコミュニティ再生だ。舞台となる山奥の村は、都会で生きることに疲れた人間がたどり着いた終着点だ。人付き合いに疲れた人間が集まっていて、集団はあってもコミュニティはない。
誰もが何かを始めようとしない終わりの場所。だから未来のある娘を連れてくることはできないと語る有子を説得するため、朋也はとも―希望と成長を意味する象徴―を村の象徴として祭り上げるための社=学校を一人で建設し始める。一人ではとても達成できない仕事だったが、河南子の元気に引きずられて村人が動き出し、一丸となった村人によって学校は完成する。
まことにご都合主義ではあるが、ここで注目すべきはコミュニティの再生が家族再生の前提条件となっている点だろう。そしてコミュニティが、電車の駅から歩いて二時間以上かかる場所にある、山奥隠れた農村で、地域住民に繋がりがある、「失われた日本の昔の景色」という幻想に支えられた場であるということだ。第二幕で示された古めの家族の形といい、ポストモダンの世の中で鍵っ子は、破壊された偶像や幻想の景色しか与えられない。
第四幕
第四幕は唐突に、病院のベッドで寝ている朋也の視点から物語が始まる。目覚めた朋也は、中学三年の秋以降の記憶を全て失っていた。勿論、恋人である智代のこともだ。智代は朋也の記憶を取り戻そうと、二人の思い出の地である学校へ朋也を誘う。そして朋也が目覚めてから七日目、朋也は智代に「好きだ」と告白する。その言葉を聞いて、智代は「永遠の愛があった」ことを確信する。永遠の愛を確信した智代は記憶が一週間で失われる朋也の記憶について告げる。そして、記憶がリセットされた朋也をつれて、記憶を取り戻させるために学校に誘うことを三年も繰り返してきたのだと。実は、手術により記憶を取り戻すことができる可能性がある。けれども死ぬ可能性すらある手術であり、永遠の愛を確信できなかった今までの智代は(愛を失うことを)ためらっていた。しかし、今ならばと、智代は朋也に選択を委ねる。朋也は手術を選ぶのだが、作中の描写を見る限り手術は成功したとはいえない。明示的には語られないが、一週間で記憶を失うことはなくなったにしても失われた記憶を回復することはできず、歩行機能に障害を負った上に、早死にするようである。
過去を振り返って未来の智代は言う。朋也が人生の宝物をくれたから生きていけると。智代は「永遠の愛」を得たのだ。そこには朋也=ユーザがいないのに、である。過去のKey作品であるAIRも最終章ではユーザが物語に関与できなかった。しかし、観鈴という物語を最後まで見ることは許されていた。ところが、智代アフターにおいては、智代という物語を最後まで見るすることすら許されない。智代という物語を最後まで鑑賞するということは、智代という人格の所有を否定することであると考えれば、この作品は冴えない男が可愛い女性を所有するというエロゲーの定義を否定するとともに、ユーザがヒロインを選択するというエロゲーの快感を否定しているのである。
また、この第四幕で一貫して主導権・選択権を握っているのは智代=女性である。いずれ、女性が男性を選ぶようなエロゲーが出てくる、なんてことはエロゲーの面白さを殺すことになるのでありえないが、複数いる女性のうち誰を選ぶかという選択権を男性が一手に握っているエロゲーの構造を考えると異色の構造だと言える。
まとめ
本作品においては、通常のエロゲの構造を否定し、その代わりに家族とコミュニティの再生を描いている。しかし、通常のエロゲの構造が男性優位社会の保守的な男女関係を描いているように、過去存在したとされる保守的な家族像、コミュニティ像に過ぎない。一方で、本作品は冴えない男が可愛い女性を選択するというエロゲーの定義・快感を否定している点においては保守的な像は姿を消し、女性の側にも選択権を与えているようである。
(2005年12月23日の投稿を一部修正して再投稿)