借りぐらしのアリエッティ

「借りぐらし」は日本人から見たら窃盗にしか見えないんだけど、ヨーロッパだと金持ちが貧乏人を救うのは当然だという考えがあって「借りぐらし」で通る、ということなのだろうか?

「借りぐらし」という言葉に関するこの疑問は、わざと家政婦にどろぼう呼ばわりさせることによって隠蔽されているのだけど……

以下はネタバレ上等。
アリエッティたち小人から見た視界と翔たち人間から見た視界、二つの視界が重なる世界を描く映像面については満足だが、問題を抱えたシナリオが作品としての完成度を落とす残念な作品となっている。

どこが問題か。それは作品のテーマというものが分からないことである。なぜテーマが分かりづらいのかというと、物語構造と作品から受ける結論に齟齬があることであり、なぜズレが発生したのかというと、主人公として二人のキャラクターが用意されているのに、力の不均衡により一人だけが残ることになってしまったからである。

まず、主人公格のキャラクターは二人いる。小人のアリエッティと人間の翔である。宮崎アニメであることを考えればアリエッティが主人公であると考えるべきであるし、実際そういった面も持っているのだが、翔とアリエッティが同時に存在する場面では翔が常に主導権を握っている。このことから、私は翔が主人公であると理解した。では主人公たる翔はどのような人物かというと、高慢で無反省な人間なのである。

翔とアリエッティが親密になる機会は2つある。ひとつは、翔がアリエッティをカラスから救うこと。もう一つは、翔がアリエッティと共同でアリエッティの母親を助け出すこと。ところが、このどちらも翔が原因で発生したことなのである。にも関わらず、彼はこのことに対する反省らしい反省も見せず、あろうことかアリエッティにこう言い放つのだ。
「人間と君たち、どちらが滅び行く種族なのか? それは君たちだ」
「君たちは3人しかいないが、人間がどれだけいるか知ってるかい? 世界には60億人の人間がいるんだよ」
(台詞は覚えていないのですが、だいたいこういった意味のことを言い放ちます)

しかし、物語における真実は人間の数が多いから、ではない。人間が小人に対してあまりにも巨大な力を持っているからだ。人間にとっては小人が望む理想のキッチンを提供することも容易いし、小人たちの家を破壊することも朝飯前だ。

そもそも翔がアリエッティを見つけたことで、結果的にアリエッティたちは住み慣れた我が家を離れて未開の新天地を目指すことになる。というのがこの作品のストーリーである。すべて翔が悪いにも関わらず、アリエッティは母親を救ってくれたことで翔を許してくれるのだ。なんと翔にとって居心地のよい世界であろう!

翔の最後の「君は僕の心臓の一部だ」という台詞も違和感につきまとわれる。僕に行動を起こす勇気を与えてくれた、ということなのだが、何度でも言おう。翔の行動でアリエッティ一家は家を離れる事態に至っているのだ。翔の勇気は人の役に経っていないどころか、悪影響を与えたにも関わらず、勇気を持てたこと自体が賞賛されている。

これでは、この作品のテーマは「人間はかのように傲慢な種族である」ということを示すことにあるのだ、と結論づけざるえない。

人間と小人、どちらが滅びゆく種族なのか?
答えはこうだ。傲慢な人間が謙虚な小人を滅ぼすのである。

物語構造としては『借りぐらしのアリエッティ』は異種族がお互いを理解してお互いの未来に出発するべきである作品である。しかし、アリエッティと翔というそれぞれの種族を代表する二人により駆動されるべき物語が、結果として一人の主人公(=人間という強大な力)によって紡がれることにより、この作品はいびつなものとなってしまった。

最後に、けなすばかりではあれなので映像面で面白いと思ったことを挙げておこう。アリエッティたち小人の世界で水滴がとても大きく描かれることだ。小人が使うカップは2滴で満杯になってしまう描写はこの作品でもっとも魅力的なシーンの一つだろう。