なぜ日本のマンガは暴力・性表現を描かねばならないか

北米に進出した出版社、あるいはAppleStoreに出品した電子書籍の著者から、アメリカは日本に比べて表現規制が厳しい*1ということが言われてきました。わかりやすい例として北米版ワンピースを上げてみましょう。たばこ、流血、銃を人に突きつけること、胸の谷間などが規制されています。

より深刻さをます出版不況の中、出版社が海外に目を向けることもあるでしょう。海外でも受ける作品をつくる――海外という単一のくくりでは顧客分析をしたことにならずに失敗してきたことが分かってきていますが――ためにそういった表現をはじめから削除してしまおうとする人もいるかもしれません。しかし、それでいいのでしょうか。そもそも、日本のまんが・アニメはなぜ暴力・性表現を含んでいるのでしょうか。

はじめに暴力・性表現を含まないまんがについて考えてみましょう。「ドナルドが高い建物から落下したら、地面にドナルド型に穴が空く。そのうち穴から身体に絆創膏を貼り付けたドナルドが這い上がってくる。」今となってはギャグとして見ることも少なくなった古典的表現です。戦前・戦時下のまんがあるいはディズニーのまんがはこのような「誰も傷つかない」まんがでした。

それでは、日本のまんがが身体性を得たのはいつのことでしょうか。まんが原作者・批評家である大塚英志は『アトムの命題』でこう述べています。まんがの神様、手塚治虫の戦時下の作品『勝利の日まで』でB29の銃弾で傷つく主人公の描写から次のように述べています。

ぼくはこの一コマこそが、手塚まんがの、そして「戦後まんが」の発生の瞬間だと考える。
もう一度、言う。
のらくろ的な、ミッキーマウス的な非リアリズムで描かれたキャラクターに、リアルに傷つき、死にゆく身体を与えた瞬間、手塚のまんがは、戦前・戦時下のまんがから決定的な変容を遂げたのである。

大塚英志アトムの命題』角川文庫 P137

身体性を獲得し「死にゆく身体」を獲得したキャラクターは死という現実と直面する自我を持たざるを得ないのである。というのが大塚英志の主張ですが、同様に身体性を獲得したことによりキャラクターは性という現実と直面せざるを得ないのであると言えるでしょう。「戦後まんが」――つまり、現在の日本のまんが・アニメ――は必然的に暴力・性表現をはらむこととなるのです。

それでは冒頭の話に戻りましょう。海外でも受ける作品、あるいは規制を受けない作品を作るために海外(たとえばアメリカ)に基準を合わせるという話はどうでしょうか。まんが・アニメの成り立ちからすれば、この主張は日本のまんが・アニメの角を矯めるべし、という主張に他なりません。特徴のない作品を好んで買う消費者がどこにいるでしょうか。アメリカの基準を”デファクト・スタンダード”として、それに合うように作品を作ろうとする出版社の方もいるかもしれませんが、デファクト・スタンダードは従うものではなく、作るものです。むしろ日本のコミックスの基準こそが世界のコミックスの基準であるとするくらいの気概を見せて欲しいものです。

次回は児童ポルノの”デファクト・スタンダード”を鵜呑みにしてはならない理由について説明します。

*1:@BoyWithTheThorn さんからアメコミにも暴力・性描写があると指摘あり。ただ一方でNANAがEXPLICIT CONTENTとして扱われてもいます