水龍敬氏の発言に関して思うこと

https://twitter.com/mizuryu/status/781957636044361728 から始まる発言について幾つか述べたい。

ゾーニングの定義について

「権力が表現の善し悪しを定義して、悪しき表現を社会の表層からパージするというもの」「不快になるから規制するのでなく、規制をしたから不快になったのだと思う」「権力が特定の表現を悪と定義したからそれが道徳的でないと我々に刷り込まれた」

権力が快不快を善の表現、不快を悪の表現と定義し、不快なもの(道徳的でないもの)を社会の表層からパージすることをゾーニングとしている。しかし、ゾーニングに反対する人間がこの定義を採用してよいのだろうか。現状ではゾーニングの公的な理由は青少年の健全育成のため、青少年への危害を防ぐこと、つまりは人権の保護が目的だ。(例として堺市セーフティプログラムを挙げる)もし水龍敬氏の言うとおりゾーニングを快不快で判断するものと定義してしまえば、規制する側は不快であるという理由で規制できることになってしまう。*1「社会に本来あるべき性や暴力の表現に触れることで醸成されるはずだった視座を人々から奪」うとも水龍敬氏が語るのはゾーニングの対決軸が快不快ではなく、青少年の人権保護に有効であるか否か、青少年の人権保護に有効であったとしても代わりに失われる人権と比較衡量として是とできるかで決まることを示している。

それは懐古趣味ではないのか?

人々が不快であると思っていることに対して「不快だと思う方が間違っている」と説得するために水龍敬氏は「裸が当たり前に存在した時代に裸は誰にとっても不快ではなかった」と述べている。認めよう。同様の理屈で「女性が働くなんてとんでもないと当たり前に思われていた時代には女性を労働から遠ざけることは誰にとっても不快ではなかった」「セクハラという概念がなかった時代にはセクハラは問題ではなかった」と主張することができるだろう。「裸が当たり前に存在した時代」があった、というのは事実だとしても、過去こうであったから正しいというだけでは懐古趣味と見分けが付かない。現在の私たちがどう考えるかが大事である、ということだ。

規制側の基準ではありません

水龍敬氏が「実際にゾーニングの現場で行われている議論の例」として持ち出してきているのは自主規制団体からの意見聴取結果であり、自主規制団体が指定非該当としたから都の判断が覆るものではなく、これを基準としてゾーニングが行われているものではない。「権力が特定の表現を悪と定義したからそれが道徳的でないと我々に刷り込まれた」結果として示しているのかとも考えたが、自主規制団体からの意見は健全育成審議会の趣旨に沿わないと批判されており、どちらにしても失当である。

*1:また、快不快という二項対立に落とし込んでは条件闘争が難しくなるのではないか