【コラム】ネクソン女性運動弾圧事態、人の顔色を窺わないでください

[京郷新聞]社会的弱者のための運動に参加したとして、ゲームに出演した声優の声が消された。メガリアを支持するウェプトゥーン作家たちの不買運動が行われている。これは私が今まで見てきた女性運動への最も直接的かつ非道な弾圧である。労働弾圧と政治弾圧という暴圧は、これだけでも遠慮なくメガリアを支持するべき理由を明らかにしてくれる。

しかし、進歩政党では、ゲーム会社を批判したコメントを「親メガリアか否か?という論争が発生して不当な労働権侵害という本趣旨の配信に失敗した」とし撤回した。大衆の人気に迎合せず、運動をリードするという進歩政党の義務を放棄したものと見られる。「メディア今日」という進歩媒体では、「過激派は私たちの信念を表してはいません」という文章に紙面を割いている。数多くの名望家たちも人の顔色を窺っている。

私の言葉を聞いて欲しい。男性が支配する社会では、男性嫌悪の表現という言葉は存在できない。嫌悪表現とは、忌まわしい表現や、誰かのために嫌悪感を露出するための表現ではない。

私たちが道義的または法的に制裁しようとする嫌悪表現は、社会的弱者に対する差別と暴力を起こす明白かつ現在の危険をもつ表現をいう。すなわち、嫌悪表現するかどうかは、その表現自体が、まるで電流が配線システムに沿って流れながら電子機器に反応を起こすように、その表現が発火したときに呼応して差別や暴力という結果を発生させる社会構造が存在するかどうかを見るべきである。

男性優位の社会では、男性を嫌悪する発言の可能性は第二次世界大戦時のユダヤ人たちが「ナチ党員を引き裂いて殺そう」と周りの人々を扇動してナチ党員に対する差別と暴力に満ちた電話をする可能性と同等といえる。

女性は私たちの社会では物理的弱者であるだけでなく、社会的弱者である。女性が男性嫌悪発言を聞いて男性に暴行や強姦しようとすることはなく、社会のほとんどの人事権は男性が握っている。

「メガリア」と「イルベ」を同等に見るのは、特定の表現に同調する差別的な社会構造が存在するかどうかを観点とせずに、嫌悪感の表現だけを見ているからである。「憎悪に嫌悪に対応している」と?メガリアは、ミラーリング戦略を使っているから当然である。ミラーリングは呼応する社会構造がある場合にのみ嫌悪の表現になるだけで、基本的に風刺であり、滑稽である。王様が実際には抵抗が不可能な状態で王を冒とくする仮面劇を楽しんだのと同じである。前者の嫌悪感と後者の嫌悪感が全く同じだとすることは、表面的にのみ正確な指摘であるだけであり、実体を知らない主張である。

なぜ我々は「嫌悪の表現」をそのように厳密に定義する必要があるのか?と水を差す人もいるだろう。なぜ、より広く定義して、さらに言語的に美しい社会を作ってはいけないのか。嫌悪の表現に呼応する差別的な社会構造がなければ、嫌悪の表現については何もしてはいけないのか。

憎悪は、私たちの大切な自由である。悪行に怒って抑圧を嫌悪するのは、私たちの大切な自由である。進化心理学的に嫌悪は愛や幸せよりもはるかに私たちの健康と安寧を守ってきた。それほど嫌な方には申し訳ないが、今や数十万年は遅れた議論だ。

憎悪は、個人の健康のためそして社会正義のための、あまりにも重要な感情である。嫌悪の表現は、1948年の世界人権宣言(UDHR)に「差別の扇動」として正確に定義されている。なぜそのように厳密に定義したのか。まさに表現の自由と思想の自由があまりにも大事だからである。「@2MB18nomA」と言うことができる自由、「Fuck the Draft」と言うことができる自由、装甲車を見て「Fucking USA」と叫ぶ自由を考えてみよう。メガリアのおかげで女性運動は百倍強くなった。見て見ぬ振りはできない。