「マンガ表現規制問題の根源を問う」質疑応答

(司会)文化文明論と法律論の相性がよいと考えているのではなく、バランスであったり、知識人と認められる人には考えてもらいたい。両者を見渡すことが実効的なアプローチになるだろう。頭がすっきりと言うより、どう考えれば良いんだろうという人も多いと思います。ここからは質疑応答。深く考えてもありがたいですが、率直にわからなかった・聞きたいことがあれば。できるだけ多くの方からご意見頂ければ。

(大阪の弁護士、小崎氏)私どもが考えることとは別の視点から役に立ったなあと思います。山口先生は同業なもんですので久しぶりに先生から講義を受けさせていただいて司法試験をやっていた頃を思い出した次第で原理原則からわかりやすかった。呉先生のお話では結局悪い言論についてどうするのかという問題だったと思います。そこの基準はどうなるのかという問題はあるにしても、そういう区分けによって悪い言論を排除してゆくということにならないために悪い言論を一定限度排除せざるをえないという流れになると思いますが条例改正案について先生が反対されるのは何故か。山口先生に対しては原理原則論としてはよくわかるが一般に青少年を保護する視点から制約があるという際に、必ず制約しようとする立場はこういうものを見せるとその影響で犯罪に巻き込まれたり引き起こす奴が一定いる、統計的に少ないかは別にしている、それを防ぐためにやっているのに何故いかんのかという反論があった場合に原理原則論から詰めていくことが説得的に展開できるのか。

呉智英先生)基本的に悪い表現があったおしても、すべて出してよし。例として報道規制があります。報道規制が引かれれまして、政府がこれ報道するなというと仕方ないとなる。これは一種のゾーニングで実は知っているわけです。すべての取材が禁止されているわけではない。この場合は多くの人が賛成できて記者の意志が侵害されない。性表現を含む場合には全部OKでそのなかで山口さんからも意見ありましたが接触で考えるかというと実務的なのでゾーニングだろうと。問題になる漫画を考えた場合コミックマーケットなどで出てくる自称パロディ。こんなものに積極的に認める価値があるとは思えない。だからといって弾圧することは避けたいと思うし中には広い底辺があるからこそという議論があるけどこれにも私は賛成できない。あんなくずが、まあ好きな人もいるから許しても良いだろう。漫画学会会長としてすべての漫画が素晴らしいとは考えていない。

(山口弁護士)影響を受けて犯罪に走るという事実が本当にあるのかな。多かれ少なかれ人間は責任転嫁する。そういうものは体験談の域を出ないし、数がまとまらなければ。細かいところに目をやっていくと全体像見えなくなるが、日本はコンビニ行くと誰でもエロ本変えるかもしれないけど、夜遅くでも安全に外出してで歩ける国。イタリアは夜遅く歩くのは子どもでも怖い。イタリアがゾーニングされている国かというと微妙ですが。実態として日本は安全。少なくともそういうものによって、その子達はそういうものがなければそういったことになっていないのか。曖昧な根拠で規制するのはよくないし、学校や親の教育しつけの対応で、表現規制でも対応。どんな社会でも非行が0とはありえないので適当な原因としてこういうのがありそうだというのは乱暴かなと思っています。

呉智英先生先生)微妙に違うところもありまして、影響論も前から考えている。影響は明らかにある。何かをきっかけにして、暴力的な行動に走るとか厳然としてあると思っている。山口さんのおしゃったように公判に出てきてこの漫画が悪いんだ、言い訳で言っていると思うけど、(影響が)ないわけでない。定性的なものと定量的なものがある。社会は定量的なものしか規制できない。被害者の立場に立ってみればこれがあるから、哲学倫理と法律の境目にある問題。法律は定性的なものを相手にできない。その境に出てくるときにこういう議論、難しいことが出てくる。行政は社会に対して関与してくるんですけど、社会の潮流をプッシュする関与と押さえる関与の二種類。文教政策はこれをやると良い子供が増えるよというのを積極的にプッシュする。AとBがあるときにAをとる、このときBを排除することは許容されることが多い。それは行政の裁量であって、私がBを取っていればBがいいと言うけれどもAをごり押しされても強い反対はできない。ところがBは駄目だBを抑圧しようというときは反対せざるをえない。簡単に言えば、こういう漫画は言う漫画だよということで図書館に入れる、排除されている漫画はどうするんだと言うには言いますが強くは言いにくい。

(山口弁護士)表現物が人に影響を催さないとは言ってない。どういう影響を受けるかは人により様々であるわけで、特定の人がある影響を受けたからと言って、そういうものだと決めることはそう感じない人を決めつける。法律で規制することは我慢することであり、説明責任が必要。その人が漫画を読んだことで仮に事件を起こしたことで、社会の対応として漫画を規制するのか、その二人に更正教育するかいくつもの方策がある。

(笑いの内閣総裁、高野)良い表現悪い表現があって、不快に思う人が多い表現に対するゾーニング、うちの劇団もいろいろなジャンルの芝居をしていて、ある意味ゾーニング、多くの人を集めるときは無難なネタをしたりしているときに、その場で笑いが取れないと意味がないのでTPOに合わせた表現をしているけれども、こんなきわどいネタをしているのはどうなんだと言われることがある。ビラに書いてくるから見に来るんじゃねえよと思うけれども。きっちりゾーニング、危ないですよというふうにやっているところまで存在していること自体がやだという人にはどのように対抗していけばいいのかな。あと、山口さんに関して、科学的根拠、明確な根拠があるんですけどこれも理論的に説明しても通用しないということってあると思うんです。山口さんのblogとか読ませて頂いてホメオパシーとか、明確な根拠なんかないんだよと言っても友達に「でもそうだもん、私の周りの人はそうだもん」といわれるとデータ出しても駄目ならどう反論すればいいのかと。僕、うちの劇団、この表現規制を取り上げた演劇を上演したけれども、演劇をやっている人間でもこの問題を知らないとか、バーのお客様でも知らない。盛り上がっているようでいて世の中に知られていない。あそこに(マンガミュージアムの展示ブース?をさして)お客様がいるのにここに入ってくる人が少ないのは残念だなと思っています。

呉智英先生)最後の問題から言うと、人口の99%は愚民だからしょうがない。ゾーニングうんぬんは言論人としてここではこの程度というものが、当然あるわけですね。TVでも録画だと切られちゃうから無難なことしかいわない。地元のニュースで朝のコメンテーターやっていたこともあるが、朝から濃い話やってもしかたないじゃないですか。無難な話で「いや〜やっぱり気をつけなきゃなりませんね」としか言えないでしょう。あなたがおっしゃったように濃い人がいるときは言うことは言うけれども、濃い人が多いと思ったら間違っていたすべりになるわけですね。それは演者の自己責任。血液型云々も法哲学は法規則でできているわけですね。ところが法律は社会の心理の反映でなくて、そういった法理が出てきたのは私も一次試験だけ受かって二次試験通った口なんで思い出したりしてたんですが、法哲学もいろんな流派があって、私は新カント派の論理。そこから漏れるものが出てくる。権力は法律以前に成立している。それが憲法を作り、刑法なり民法なり作っている。法哲学上の大きな対立でカール・シュミットと人生法学(???)の。法だけから言えば、99%が愚民がいるからしょうがない。法律が非常に合理的に作られていると思います。

(山口弁護士)理論的に訴えても通用しない人は相手にしない。スタンス的にはそうです。言って、分かる。僕がやってる法理的な発想になってしまうけども99%は興味がないと言いますけど、だったらそういう人をこちらに取り込んだ方が99%を少しでも取り込む努力したほうが遙かに効率的。僕のメッセージは規制推進はだけでなく中立派をどのように取り込むか。ホメオパシーを信じる人に届いてくれたらいいですが、ホモやっている人は歪んだエリート意識持っていてなかなか自分が間違っていると認められない。信者になりかかっている人には届くかもしれない。将来的な拡散は止まり、それで十分と思っている。なぜなら人間は死ぬからですね。そういった集団が高齢化、衰弱化すれば。僕は新しい規制推進派が増えないようにすることを考えています。そういう戦略が基本的。反対側に行っている人を説得することは、労力的に観て99%の無関心な人を1%でも2%でも取り込む

呉智英先生)ホモやっている人はホモやっていればいずれ死に絶えますよ。山口さん鋭いこと言ってまして、ホモに存在かけるのは一種の社会的ルサンチマンが多いのですが。小木津良一さんみたいな超エリートがホモをやっているのがまた現代社会の病理。本当のエリートが現在の医学の中で人を救えないという現実に合うときにホモにはまってゆく、それは非常に説得力あるんですね。現代の知の有り様を根本的に考えないと、小木津さん馬鹿なんじゃないのと言えるのか。学歴悪いけどあなた馬鹿でしょ。学歴とか頭いいとかは何なのか。ただしその説得ということに対してはその通りで、銀が出るとこ掘った方がいいと思いますね。

(山口弁護士)知性とは何か、僕は教養と。過去の営み、過去の知的営みの延長線上に自分を位置づけるっていう考え方がないとああいう考え方にはまってしまうと思う。ホメオパシーについて異端説を抑圧するのはよくないじゃないかと言ってるけど、勝負は19世紀の終わりについている。それが、みんなが忘れた頃に僕らが負けたこと覚えてないよねということで出てきているから、当時ホメオパシーについてどういう議論が行われたか、歴史の物差しの上に自分を置いてみれば。僕がホメオパシーに関わっているのは僕がカルトに関わっているから。東大卒とか、とても頭良いのにカルトに入っている。自分の体験というのを絶対視して、騙された人多く観てるけど彼らは自分は騙されないと思っている。騙されると思って騙される人はいない。自分の、自分がそう思いつくのは初めてなのかな、自分が思う悩みは他の人も悩んでいるんじゃないかなと考えることが重要だと思う。人類史上その悩みを抱えたのが初であるということはありえない、過去にどう考えたかというと。過去のこと知らなくても学歴エリートになれる。何千年という人間の営みの上に、切磋琢磨した成果物、その課程がある。その中に自分が体験してないものを振り返る姿勢が必要。「愚か者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶ」知性が高い人と学歴が高い人は違う。

(司会)周期を迎えては同じような議論を繰り返し、ということがありますが

(山口弁護士)興味深いと思っていて、人間ってほら記憶を外部装置化しない。攻殻機動隊の世界面白いと思うけど、忘れちゃうんですよね。今言っているような議論って石ノ森章太郎さんが言った議論と変わらない。けど、今回やった記録はネットに残っている。そういう風な形で僕らのやった戦い、知的営みの記録が残っているという状況において再度繰り返せるかどうか興味深く思っています。

(司会)五年後、十年後に違った側面を見いだすかもしれないですね。

(文化ブログの主催、阿部氏?)うまくまとまってないんですけど、ある部分でこの問題は上に立った正義をかざす人が一般の多様性を弾圧するようなことが行われているように思えて、そういうこと、この多様性の時代で「大きな物語」が崩壊したあとにそれぞれの小さな物語で生きていく時代にそういったものを規制することは間違っていると思うけれども、そういうことが起こりうる。はっきり言って民主主義の問題が本質的な問題になってくると思う。僕らが欲望と、うまく言えませんけど、律していけば上の人から規制されなくても自分でやっていけれるのであれば上から拘束みたいな感じで上の人から指図される必要もないと思うんですけど、いつまでもそういうことを繰り返している状況、呉先生の99%愚民だということになるんでしょうけど、愚民を変えて行くには具体的にどうすれば。

呉智英先生)愚民は変わらないから愚民なんですよ。愚民は一定パーセントいて、蟻さんを観察していると働く蟻と働かない蟻が一定割合いる。アメリカは狂信者と借金まみれの人間が逃げ込んだ国。ところがそこが狂信者の国になるかというと何年か経つと変わってくる。質量保存の法則じゃないけれど、愚民量保存の法則があるわけですね。法律ではどうしようもできない。法姿勢とは全く違ったところにいる。独裁に倫理的問題はまったくない。政治の巧拙、民主制でうまくいっている場合とうまくいってない場合、独裁制でうまくいっている場合はうまくいってない場合。開発独裁は犠牲が最小で済むという議論、共産主義はある意味開発独裁という議論もある。世襲制の独裁なのか、強制による独裁なのか、議論は尽きない。それと文化の問題も別にあるわけで、山口さんのおっしゃった問題と絡めていると、組織人や文化は変わるかどうかわからない。文化は相対的なんだけど、すべてがそうなのか。相対主義を徹底してゆくと、何の基準もなくなっていくんじゃないか。歴史の字句で考えることが必要である。どんな時代でもやっていけないことといいことはある。的を殺すなら身内を殺すのはどんな時代でも社会規範としてあった。敵国の女を強姦することは許される時代もあったが、身内の罪のない女を強姦することは許されていない。では身内の罪のない女を強姦する表現は、わたしはそれを許容する。表現を駄目とすると、人間の考察力が衰える。

(山口弁護士)愚民かどうかは相対的でなくテーマごとに決まる。表現の自由については違うかもしれないけど、財政については愚民かもしれない。一律に愚民というカテゴリーがあるかと言えるかというのが一つ。二つ目として、民主主義は暫定的な正しさしか保証しない以上、僕の考える民主主義も道具でしかない、この国で民主主義は徹底されてない。違憲立法審査制があるんじゃないですか、民主主義が絶対だという考えで国家システムはできていない。ある種独裁的な、法廷における裁判長の権利、15人の裁判官だけで国会の法律を覆して良いよ。ある種の局面において民主主義は暫定的な正しさである以上ちょっと待ったする必要がある。国民の自由、幸福を追求する権利を保障している、幸福になる権利でない。それには民主主義はいちばんいいだろうなという話でしかない。民意が暴走したときにおいて違憲立法審査。民主主義は道具でしかすぎない。たしかに開発独裁の法が効率的だが、一度持った権力は話したがらないし、独裁は外部からミスの是正ができない。隠す方向に行く。神様みたいな人がいるなら独裁でもいいんだろうけど、弱い人間に権力を持たせる独裁には躊躇せざるをえない。

(司会)山口さんが報告のなかで所詮価値観が時代で移ろうもの、呉さんはいくつかのやっていけないことは変わらない。ポストモダンを批判する際に真善美、何が美しいかは変わるけれどもそのものさしは変わらない、にしけんさんなんかはおっしゃっていましたけど、政治体制の問題なるとでかい話だと思いますが、それすら視野に入れながら話すことに意義があるんだろう

呉智英先生)さっきから根本的な議論になっている。根源的な議論があることに気づかないのが問題だと思っている。子どもには見せたくないけれども自分はみたいとみんな思っている。よく援助交際しているのが子どもに説教たれるのがいけないとある社会学者が言っている。自分は自分の子どもに援助交際させたくなくても他人の子ともに援助交際したい。それが当たり前じゃないか。セックスは素晴らしいものだ、人間は素晴らしい肉体を持っているんだから、とか本質的な議論隠す。性は気持ちいいものかもしれないが、素晴らしいものかは分からない。快楽と真善美は関係ない。心地よいことが正義とは限らない。一番気持ちよいのは覚醒剤に決まっている。人間やめたくなるほど気持ちいいんですよ。私やったことないけど。気持ちいいことが正義と勘違いする、以前はそういった議論はなかったんだけれどもこの100年くらい心地よいことが正義であるといった「時代によって移ろう価値観」が広まっている気がします。それが性表現の議論が深まっていけないところだと思います。

(山口弁護士)取材に来た記者にあなたは問題になるような本を読みました? 強姦したくなりましたか?いいえと答える。じゃあなんで規制しようとするんですというと黙る。いえ先生は大丈夫ですが…という発想はどこから出てくるか。そうなってきてしまうと、それはたまたまとなると、自分たちは違うという発想が根底に規制推進の議論があるような、ある意味高みに立ったような議論。児童ポルノをたくさん観ているのは規制推進派の人でしょ。そういう人が何か起こしているかというと起こしてない。

近畿大学学生)規制推進派は規制をすることによってどういったメリットがあるか。もう一つ、規制反対の署名活動したときに規制推進派からポルノを観たい奴に決まっている、という意見があって……


(山口弁護士)そのために藤本さんがいるんですよ。なるべく女性、PTA関係者を表に出すようにしました。意図的にやっているのでないが、対外的にどう見えるかコーディネートしないといけない。僕がやっているとコミケとかの関係があると言われるけど違うんですよ。主婦層とかPTA関係者、女性、婦女子に運動を拡大できたので向こうは女性蔑視とかいった論理が全く使えなくなった。警察云々ですが、規制推進派の人は警察に動かされているんじゃなくて、彼らは彼らなりの正義感、善意で動いている。間違った善意ではあるけれども彼らなりの正義感で動いていることは認めないといけない。気持ち悪いことはいいことの反対は気持ち悪いことは悪いこと、悪いことを規制することはいいこと、そのこと自体が報酬となりますからね。

呉智英先生)学生の方のおっしゃるその反対運動云々、反対運動に反対になるんですけど、日本では長い間議論されていなかった、社会防衛論の問題。戦前の国家体制がイデオロギッシュで、戦時体制で議論が出てきたとなっていた。社会防衛論を無視して人権問題を語ることはできない。主に革新系団体で社会防衛論いけないと思っているんですか、みんなここの警察のスパイが入っていたらつまみだすでしょ。あんなもんはファシズムが考えるものだと考えていると足をすくわれる。それを忘れていたのが十年前の拉致事件。あれもそれまで日本の国益を守るためにはスパイ法を、そのときは戦前と同じになると主張していたがために、崩れてしまう。社会防衛論に対してはきちんと考えた上に議論しなければならない。その一助にこういった議論は意味がある。

(司会)地方自治体による根回しを説得が乗り越えた、周期的に出てくる議論に対するネットの可能性。理性的な議論が今日の、愚民という話がありますが、大衆化社会の問題だと思いますが、ネットが持っている可能性が一方で、世論調査に代表されるように一週間で気分が変わってしまう。理性的な議論が取り込むことの一助になる一方ですぐ離れてしまったり、知事が替わることによって本質的に変わらないけれども別のメッセージで支持不支持が変わるとか、課題があれば聞かせて頂きたい。

(山口弁護士)向こう側にこっちに取り込んだ人が向こうに行くかもしれないというのはどちらが積極的な議論を構築するかという問題にすぎない。ある意味、一般、若い層においてどうすれば受け入れられるかなというロジックは組み立てているし、未来に豊かな議論を残したいという衝動をどうやって共有できるのかなと考えている。この問題は左右を超越して、僕の周りにはネトウヨみたいな人もいるし典型的な左翼みたいな人もいるし、容易に向こうにひっぱられるような言質を取られないように自分の言論をコーディネートすることは考えざるを得ない。結果として僕の言論の自由がない。大衆社会と言ってるけど、嘘つかなければある程度いけるし、集合知としてのネット(の議論)は分かってくれるんじゃないかな。嘘付かなくて、持っている情報をなるべくかみ砕いて伝える。山口前言っていることと違うじゃないかということはたぶんないと思う。一貫性のある立場を貫くしかないと思う。

呉智英先生)山口さんは非常にオルガナイザーとして優れたやり方をやっている。嘘をつかないということすら利用していくわけで、宣伝活動ですね。どのように自分達のイメージ力を高めるか。ネットのようにハードルの低い、その分誰でも参与できるメディア流通ができてくると流動的な社会ができてくる。政治の中枢にいる人たちもてんやわんやになる状況、移ろいやすい民意があらわになっている。山口さんのような優れたオルガナイザーが必要だけれど、法律はそのなかで流動的でない、そこが危険だということ。すべてが流動的であればまた考えられるのだけれど、流動的ななかで流動的でないものがある。そこが危険。せめてここに集まっている皆さんでも議論をして深めて頂きたい。