「マンガ表現規制問題の根源を問う」山口弁護士

(司会)一度法律として決まったものは、なくすには労力がかかり難しい。これから山口さんに、今回の動き、周辺を含め問題提起、状況整理をしてもらいます。

(山口弁護士)

呉先生の講義の後に私の話はつまらないかな。呉さんの話は参加者というより私に十字砲火を受けるようなものですがどこまでボールを投げ返せるか。政治集会ではないとは言われましたが、基本的には条例改正案に賛成だという集会ではないので否決の歴史的位置づけについて。
都条例の否決はEBP(根拠に基づく政策)という観点からも重要。地方自治体による根回しと説得を理性的な議論が乗り越えたという意味で非常に画期的な出来事。具体的な根拠に基づいて税金使ってもらわないと、子どもに役に立つことと、子どもに役に立つと思えることに対しては大きな差があるわけで。東京都にとっては向こうずねにけりを入れられた程度で戦いは続いてゆく。
現在の情勢。都は再提出を諦めていない。細かいことで字句修正。非実在青少年は消える。非実在青少年を考えた人はとても頭がよい人で、とても助けられたと思っている。1.東京都青少年問題協議会に対する改めて諮問を行っていない。2.質問回答集がHPから消えていない=まだまだ使えると思っている。
ここで一つ補足説明。大阪、京都でも同じ議論がされている。東京都は青少年問題協議会で議論。大阪府は青少年健全育成審議会。両者は全く似て非なるもの。青少年問題協議会の設置根拠は条例ではなく法律。青少年に関する施策に答える機関となっているが、知事が自由にメンバーを決められる。青少年健全育成審議会は行例に基づいているが、知事が任命権を持っているが業界団体の枠などが決まっている。なぜか東京都の青少年健全育成審議会は不健全図書に判断するか否かを判断する機関になっている。大阪では青少年健全育成審議会のため割とバランスの取れた議論になっている。
都条例の経緯。国会レベルの立法で導入できない規制を条例レベルで導入。児童ポルノ法改正(単純所持、創作物規制を前提とした調査研究)は民主党が慎重なスタンスを取っているため当分通りません。なら各自治体ごとに条例を作ってしまえばいいじゃないか。青少年健全育成基本法ができないから健全育成条例を作ったのと同じ仕組み。この国の公権力が昔から使ってきたテクニック。「青少年が安全に安心してインターネットを利用できる環境の整備などに関する法律」(総務省主導)VS警察主導の法案の対立で、総務省が勝った。警察として巻き返しを図りたい。その一つが単純所持、インターネットにおける児童ポルノブロッキングブロッキングについても総務省VS警察主導。通信の秘密があるからあくまで緊急避難という議論(総務省)。総務省と警察の対立が東京都にもちこまれている。東京都は便利な場所で、豊かな自治体で交付金もらってない=東京都に対して総務省の発言権がない。子どもを守るんだという大義名分の下で権力拡大を狙って失敗したが、諦めていない。
都条例の問題点とは。(サイゾー本に書いているけど本が出た翌日に否決されたためサイゾー本が山口事務所に段ボール箱ごと残っているんですよ。)自主規制の範囲が拡大。平たく言えば、18歳未満に見えるキャラクターのベッドシーンが入っているものが全部成年マークをつける。単なる自主規制という考えもあるだろうが、ルールというものは作った瞬間に守らない奴どうするの?となる。自主規制に従わなければ罰則作りましょうという議論になることは目に見えている。実際には強制力を半ば持つと言って良い。もう一つは自主規制の履行について青少年性的主体描写物(18歳未満における〜を含む)について蔓延を防止しようとしている。蔓延防止のための市民、団体の運動を東京都が支援する。まん延という言葉は伝染病予防法、検疫法に出てくる。要するに完成市民運動を東京都がバックアップする。自主規制に従わない出版社、書店は平たく言うといじめますよと。東京都は手を汚さない。そのことで、市民によって市民の表現を弾圧することで事実上。質問回答集の法的拘束力は全く無い。その程度のものだが、内容と条文がミスマッチ。東京都は一貫してミスリーディングを誘っている。東京都は18歳未満のキャラクターに対するレイプなど悪質な性行為において性的好奇心を〜な漫画について限定してといっているが、実際は違う。実際には18歳未満にみえるレイプシーンがあってしまえば、強制力を持つ自主規制の対象となってしまう。
もともと青少年健全育成条例があったにもかかわらず日本のマンガ文化は栄えてきた。だから大丈夫じゃないですかという意見もあるが。18歳以上の趣味/嗜好に付いてまで公権力が否定的な評価を加え、これを追放しようとしている。はっきりいって、どういうことかというと、健全育成条例に基づく規制は合憲と下されています。東京都も合憲であると説明しているが、明らかに従来の不健全と諸制度の範疇を逸脱している。蔓延の防止という言葉、つまりそういうものにオトナがアクセスすることについてもよくないことだということに踏み込んでいる。青少年健全育成条例はあくまで18歳未満には早すぎるでしょということ。まだ未熟なんだから観る権利についてもはやいからと余計なお節介をする。18歳以上のものについて制約してはいけない。ところが今回の改正案は18歳未満のベッドシーンを含む作品を18歳以上が消費することに否定的な評価をする。最高裁の判断の大前提、オトナは自由に観れるから良いでしょというものとは違う。
表現の自由とは何か。一から考え直してみることが重要。憲法二一条第一項。表現の自由の重要性。1.表現活動を通じて次項の人格を形成する。2.政治的意志決定に関与していくという民主制に不可欠なこと。表現の自由憲法が保障した趣旨。憲法第二一条には法律の留保がない。大日本帝国憲法二九条=法律の範囲内のおいて。ある意味画期的である意味危険。議会の決定がない限りは表現の自由を侵害してはいかんよ、というのは画期的である一方、法律作って規制できるのは危険。憲法二一条は法律をもってしても制約し得ない権利を保障している。多数者のものではなく、少数者のためにこそ存在する。法律は多数意志を持って成立する以上、多数者の表現を侵害するはずがない。多数決の論理から保護されないものを保護するもの。規制を求める民意の存在は、表現の自由を制約する根拠とはならない。憲法上の人権というのはそんなものですけどね。法律を持ってしてもこれをやってはならんというのが憲法上の人権。
呉先生に対して。「法律の留保」が認められなかった理由。多数決原理の本質=暫定的な正当性に過ぎない。何が正しいか分からないから。何が正しいか分かっていれば多数決なんてする必要ない。客観的なことについては多数決しない。議論を尽くして考えて意見をいいあって、それでも多くの人が特定の結論を支持するのであればたぶん正しいものだろう。多数決原理の本質=暫定的な正当性に過ぎない。呉先生からは悪いものについて何故保護されてなくてはならないかという私の答えは、何が良いか悪いかはわからないという答え。価値観、評価は所詮移ろうもの。特定の表現についていろいろな見方がある。ホメオパシーについて批判的な観点から興味を持っている。はだしのゲン、気持ちの悪い文章もある一方で、特攻の拷問シーンもある。友情や人間の見にくい側面であったり。どの面を捉えて良い悪いとするのか分からない。サディスティックな面を持っている人がおお、こう人を痛めつければいいのかと考えることもできるし、こんなことやっちゃいけないという人もいる。時代とともに評価は変わる。それを当時の多数派の意志で固定していいのだろうか。つまり、「国民」を考えたときに今の国民だけでよいのか、未来の国民を考えなくて良いのか。ある表現について良い悪いと議論できるのは、過去の人がその表現を残してくれたから。将来の国民の表現の自由をどう考えるべきか。東京都の条例は日本におけるエログロナンセンスの部分は衰退し、後の世代はそういうものがあったことを知らなくなるかもしれない。先ほど多数決原理に議論が必要と言いましたが、多数派は少数派が多数派になる道を封じてはならないと思う。そのチャンネルを閉ざしてしまうことは多数決原理の内在的制約として許されないのではないか。消費税を5%から10%にする、いいじゃないですか。18歳に見える性行為をやっちゃいかんとなったとたん、そういう規制おかしいんじゃないかと負けた少数派がリターンマッチを挑むことが不可能になる。表現の自由は傷つくと回復しがたい人権である以上、法律の留保という安易なもので規制してはならないと考えています。
表現の自由に対する制約は許されないのか?そんなことはない。公共の福祉による最低限の制約には服する。人権と人権が衝突する際の調整原理として制約されることは当然だと思う。自分の腕を振り回す権利は相手の顔に当たった瞬間に終わる。ヘイトスピーチについては、人権はあくまで個々の人間、集団ではなく個々に限定すべきだと思います。18歳未満に思えるキャラクターが強姦されるものが総体としての女性・子どもの人権を侵害するんだというのは公共の福祉ではない。何々民族の尊厳といった規制は私は反対。特定の人間に対して侮辱罪等はあるが、特定の人を名指ししないものに対しては人権と人権の衝突の概念に含まれないので許されないと思っている。子供を産めない女性云々で石原知事が訴えられた事件の判決は正しいと思っている。あの発言がよいとは思わないが、法的な問題に問うことは許さない。特定の人に対して言ったのであれば損害賠償となるが、集団の属性においてもやるとなるとおかしいことになる。幸福の科学というグループを批判することで私が教団を傷つけられたとして各地で裁判を起こされた。こういうことを認めてしまうと安易に表現の自由が制約されてしまうと同時に、人権とは個々人の自己決定権。女性としての自己決定権があるとなると、その自己決定権は誰が決めるのか。当然その中で色々な意見があるわけですよ。そうなってくるとこういうものは女性の尊厳を害するんだと言ってしまうと、女性の中で異論を持つグループの意見を封鎖してしまう。表現の自由という事件に反すると思います。ヘイトスピーチに対する規制も正当化できないと思っている。同時に何々の差別を助長するも規制の根拠とできないと思っている。集団に対して言われた際は集団の中で受け止め方が違う以上、女性はすべからく侮辱されたと思わなければならないといっていることであって、思想統制以外の何者でもない、それを表現の自由から導き出すことは根本的に間違っている。抽象的な安全論からの表現の自由の規制派認められないと思います。規制を推進する側に根拠を説明する義務がある。一体何が対立する人権なのか。子ども全体として、女性全体として脅かされるという言い方をするが、それは個々の団体に入っている人間はすべからくそう考えると押しつけることであって、自分の意志を持つという人権に反するものだと思います。
規制する方法として二つが考えられる。直接規制。児童ポルノ法、わいせつ罪。児童ポルノ法の対立人権は子どものプライバシー、自己決定権。直接規制の問題点は、市民から公権力による表現規制の正当性を吟味する機会を一切奪う。児童ポルノを摘発しましたと言っても、どんな画像だったか全く分からない。ここまで規制していいのかといった議論ができない。175条は性道徳。最小限の性道徳を維持するための立法は今のところされていない。175条については書くことは禁止されない。特定少数人の間の譲渡は許されている。検証の余地はある。松文館裁判で蜜室を宮台先生などに渡して相談することはできたが、児童ポルノではこれができない。確かに児童ポルノではやむを得ないんでしょうけど、一度認めることは権力に完全なフリーハンドを許すということ。それほどのものであるかということを考える必要がある。宮澤りえのサンタフェが該当するとして、それを厳密に規制する必要があるかどうか考えるべきとは思っている。間接規制の例はゾーニング。売っちゃいかんとはいわんがTOPをわきまえなさい。これは前の直接規制に比べて緩やかに認められると考えている。不健全図書は成年が購入できるから議論ができる。ただ同時に霞をくって生きているわけではないから、間接規制も市場形成を不可能にするほどになると表現の自由が成立できなくなるため、事実上購入規制になる。間接規制を導入する場合もより緩やかな方法で規制目的を達成できないか検証する必要がある。
表現の自由に対する規制の正当性を考える場合の視点。1.立法目的の重要性・正当性2.立法目的手段(規制)が立法目的達成との関係で合理的と言えるか。3.規制が明確であるか。たとえば3号ポルノは主観的要件が入っているし、年齢を写真で判断するのは難しい。4.規制が必要最小限度であるといえるか。(間接規制の場合)5.対立する人権が侵害される現実的な危険性があるか(直接規制の場合)児童ポルノであればそうでしょう。
この視点から青少年健全育成条例を考えていく場合、立法事実があるかどうかわからない。合憲とはしているが、2の合理性、3の明確性に欠けている部分がある。改正案は規制を強化する必要性、規制強化と立法目的の達成に関する議論が必要なはず。明確性がない。しずかちゃん云々〜というが、そういった誤解を招く条文は曖昧だ。回答集を作らなくちゃいけないほど曖昧、明確性を欠く。
強力効果論への反論。体験談的な根拠しかない。健康食品と同じ。こんなものならべても根拠にならない。観てるけど何もしない人がどれだけいるか。責任転嫁の材料とされる可能性が高いけど、1万本のゲームソフト売られて9998人何もしなければ無害と考えるのが普通。
今後のゾーニングのあり方に対する私見。青少年の健全育成という観点でなく、性表現など暴力表現を不意打ちしないようにという観点で。ある種のサインを示すというのがゾーニングであって、なくすこと(子どもが手に取らないように)ではない。

(司会)原理的に詰めてこられたと思いますが、山口さんの考えは多数派なのですか。

(山口弁護士)詰めた議論をしてるということですが、法律家が忘れているだけだと思う。僕がしている議論は昔の司法試験を受験している人はこういったことを思いつくよねという原理的なものであって、話して分からない人はあまりいない。そんな難しい議論をしているんじゃなくて、定番となる憲法の教科書を読んでいけばこれくらいのことは自ずから導き出されると思います。司法試験でやったことでも使わないことは使ってないから忘れしまっていることが多いけど、僕はこの分野について粘着質に取り組んでいるので覚えています。