「マンガ表現規制問題の根源を問う」呉智英先生

(司会)
趣旨:東京都条例改正案のキーワード:非実在青少年が一人歩き。同時多発的に他府県でも同様の。大阪府京都府。関西における児童ポルノ(所持)に関するテーマについて考えるべきことがでてきた。京都府=マンガミュージアム。一回目については作家の意見、海外事例の報告、現状の報告があった。今回のシンポジウムは通底している根源的な問題(思想)に関する二つの柱。一つ目は、表現を研究素材とする歳に学問は何をなし得るのか、知識人は何をすべきか。呉さんから文化論文明論。二つ目は、現実にどう対応していくか法律の問題。どのような仕組みを持ち、どのように対処していくか。考えを深めることもあれば、認識を改めるものもあるかもしれない。40分の公演x2+質疑応答が一時間強の予定。

呉智英先生)

三月の民主党への陳情のときも出席。漫画規制に反対の立場。表現規制に対して反対する立場の理論水準があまりにもひどいことを痛感。3月の集会のときに更に痛感。反対している人たちの心づもりがあまりにもひどい。漫画に限らず性表現規制、主に国家権力がしてくるわけですけど、これじゃいかんと言っている人たちの理論はあほらしいもの。生産的なものとして蓄積されない。政治集会の場合は単純にスローガンを立ち上げる。色々な議論があることはおいといて。日本の労働者を守れといったときに戦争になったときはどうなるかetc考えずにやらざるをえない。労働者が置かれている立場、歴史、使命が見えてこない。だがそこをみないと議論はやせ細ってゆく。いかに馬鹿らしい議論がされているか。私含め何人かが民主党議員に対して陳情しに行った際、ある技術系大学教授がばかばかしいことを言っていてどなりつけたくなったが政治集会なので何もいわなかった。青少年規制を欠けられているのは同人誌、婦女子=社会に出て行けないナーバスな人たちを傷つけないでください。馬鹿じゃないか。政府はいたいけな少女が傷つけられているのをどうするんだと言っているときに、20歳以上の社会不適合でナーバスな人を守れというのは間違いだ。いい大人じゃないか。反対の議論にならない。あきれかえった。漫画家の人たちになるときわめて単純な議論になる。漫画家にとっての創作意欲がしぼむ。漫画家は漫画創作にエネルギーが行っているもので文化論的に考えることはフィールドではないため、過大な期待は抱きません。実作者ではない、評論家と言っている人がそのレベルでは議論が蓄積されない。多くの人が法律論の枠内で、憲法で、国連憲章で、だから我々はポルノ漫画を見る権利があるのに国家権力が弾圧すると。法律論は大切で山口さんから話があるだろう。しかし、法律によって権利が保障されていようが、法律が変わってしまえばだめ。憲法改正の法案が通ったり、外国が侵略してきてしまったら終わり。それより文化文明論的に考える必要があるんじゃないか。それが知識人、大学教授、ジャーナリストの仕事。今からに十年ほど前ヘアヌードという言葉が出てきて、憲法一五七条に違反するのではないのかという議論があった。私はヘア解禁がおかしいと言っていた。いつ日本においてヘアが禁止されたのか。禁止されたのは陰毛etc。恥毛とかをはばかる気持ちがある、性的羞恥心があるのに、人間にはヘアがあって見せないのはおかしいという議論をしていた、それがおかしいと私は言っていた。ヘアの欺瞞性についてずっと言っていた。そのうち私の言っていることも一利あると認知されて、井上章一さんという、文化史風俗史に視点を変えた「性の用語集」で私を引用して欺瞞的であると言ってくれました。つまり、人間の中には性的羞恥心がある。恥ずかしくないからすべて公開していいんだ、というのは間違っているということが認知されてきた。
寺山修司という劇作家がこんなことを言ってます。「良識」にのっかった性表現議論。日本は性表現の後進国であって、性毛が生えたら娘の成長過程を記録できなくなる。性毛が生えた年になって父親が写真に撮っているのは異常な国じゃないか。父親が裸を取るのはせいぜい三年くらいですね。陰毛が生える年になってまで娘の裸を写真にとるような父親がいたら変態だ。こんな水準では仮にこちらの意見が通ったとしてもいずれ問題が起きる。言論の自由は、良い言論が出てくるようにという話だ。しかしその通りとは限らない。良くない言論の権利はどうなるんだ、はあまり考えていない。表現規制は性表現と、差別表現規制。これはいずれ法律レベルで議論が起きてくる。ヘイトクライム。民族的嫌悪の表現をすると犯罪になる、欧米で行われている。日本がどう考え、どう受けれるかが迫ってくる。現実問題として、イスラエルにおいてはベニスの商人が上映できません。ユダヤ人がえげつない人間として描かれているから。イギリスにもユダヤ人がいます。でもイギリスでは公演できる。何を根拠に許されているのか。日本では議論さえされていない。「偉大な文学者」がユダヤ人の人権を無視した作品を書いている。ドイツではナチスを思わせる印、ナチス文書が禁止されている。ドイツでナチス研究する人は英語、フランス語による「わが闘争」を読まざるを得ない。日本でもこのようなことが起きないとはいえない。つまり、人権を否定する文献、表現がいけないということを人権の名において訴える、人権の名において解禁しろと言えるのか。表現の自由は良い言論を認めさせろと言うことになっているが、そうではないものはどうなるのか。法律に記載されているか否ではなく、文化文明論が必要だと考えています。
古いところでは荻生徂徠。江戸中期の知識人。講師の論語について注釈した本。平凡社東洋文庫朱子がどう考えてるかというと、社会倫理でなくては教えとすることはできない。義理を離れて朱子は、詩というものを知らない人間である。書経という者は政権の格言である。いにしえの成人達の格言。しかし、詩経というのはそのものではない。その言葉を持って教えとすべきものではない。しかれども人情を尽くすのは詩経である。義理を離れて…義理=社会規範。書=書経=政治倫理書。詩=詩経。人情=人間の心情。丸山真男が言う政治と芸術が分離した転換期、テリトリーが違うんだ。これと同じ事言っているのが本居宣長荻生徂徠からヒントを得たんだと思いますが、排蘆小船という本があります。つまり、質問者は和歌、俳句は世の中をよくする社会倫理であって、娯楽ではないんですねと質問した。非なり。本居宣長は違うという。歌の本体、本質は政治を助けるためでもないし、身を修めるものでもない。只心に思ったことを言うより他になし。そのうちには結果的に政治の助けとなる歌も、自身の戒めとなるものも。逆に国家の害、実の災いになる歌もある。悪いことも良いことも当然あるだろう。そこのところが分からないと、歌はわからない。これらは近代的法律背景が成立する前の話である。これが近代を準備したというのが丸山先生の主張の要。明治になると坪内逍遙小説神髄。ここにおいても同じようなことが言われている。ただし、フェノロサの影響がある。26歳にして現在の議論の大枠が出尽くしている。小説の主眼というところ。小説の首脳は人情なり。人間の心の中に波打っている感情が小説の本体である。これを善悪として判断すると〜。ハムレットに出てくるガートルードを批評しろという問題に対して坪内逍遙は、彼女は不倫して旦那の毒殺をゆるした。姦通する女は許さないと書いた。それは当然だから…。文学の中に、悪い女が魅力的に描かれている例があるじゃないか。皆さん良い物を何故弾圧するんだとおっしゃいますが、悪いものは弾圧してよいのか。
最終的には法体系の中で最終的な決着点、ゾーニングを見つけなくてはならない。具体的なことに対しては山口さんが色々詳しいお話があると思いますが、私としてはゾーニングで妥協点を見いだすしかないと思っている。良い表現を禁止するなというのは当然だ。表現には悪いものもある。これを弾圧してよいのか。文化論文明論としては昔から議論があるのだ、その程度のことも我々は知っておいてよいのではないか。

(司会)大学生が授業でこれを受けてどのような反応が?

呉智英先生)学生は本居宣長とか読めません。名前を知らない学生もたくさんいます。たいていみんな驚きますね。特に本居宣長のいいところは、現代語で読んでも衝撃的、「国家の害ともなるべし、身の災いともなるべし」詠んだらその人を滅ぼすような和歌だってあるんだよ。言論の自由は良い物についてあるものだと思っていたけれども、悪いものもあるじゃないか。悪いものをどう考えるかというきっかけになるので衝撃を与える。
(司会)ヘアの話もありましたが、議論の質は一部上がってきているけど総体としては変わらないという考えですか。

呉智英先生)性の議論というものは、戦後解放の方向に向かっている。多数派がみたいと言っている、それに迎合してお上がじわじわと許している状況があるから。このうち滑稽なもので言いますとチャタレイ夫人の恋人。猥褻文書とされ、裁判となり、罰金を払うことになった。この伊藤整が翻訳したチャタレイは簡訳版。詳しくない。完全版の方が露骨なんだけどとおっちゃった。ならば伊藤整が出てもいいと思うのだけど、一度猥褻文書とされているので出版できない。警察は一度猥褻とされたものは猥褻文書として扱う。もう一度裁判したら観られるようになるだろうが、伊藤整としてはもう一度裁判するのも。なし崩しに拡大されているのがよくない。感情論で、体にあるヘアを何故かくすんだ、といいながら口からは陰毛という言葉を隠す。