ゴッサム・シティを守ったのは誰か。それは友人でもあり一介の法執行官であるゴードン警部である。復讐者リドラーとブルース・ウェインを分けるものは何か。それは他者という概念を教えたキャットウーマンである。
もちろん映画の主人公はバットマンである。しかし、作品中の彼の役どころは狂言回しというに尽きる。リドラーに操られるまま各地に出向いて「悪事を暴く」も誰も救えない。ファルコーネには「お前の親父を殺したのは俺の商売敵だ」と言われてあっさり信じ込む。冒頭バットマンはジョーカー柄の化粧をしたゴロツキを追い払うが、助けたはずの東洋人には「近づくな」と拒絶される。父を殺したゴロツキ――ゴッサムシティに潜む悪を懲らしめる復讐者がブルース・ウェインが語るバットマンの定義だ。 もっとも、他人から見れば評価は違う。冒頭のゴロツキにとって、ゴードン警部以外の警官にとって、あるいは違法ドラッグを扱う地下バーの用心棒にとって、バットマンは仮装したフリークス(変人)だ。ゴードン警部の知り合いだから現場に入れてやっているんだありがたく思えと言わんばかりの警官も、ブルース・ウェインが相手にとなれば「どうぞお入りください」となる。バットマンに殴りかかろうとする用心棒もブルース・ウェインが相手となれば丁重に扱いボスに取り次ぎを入れる。
そんなバットマンが曲りなりにも活動していられるのはゴードン警部のおかげだ。作中のラストでリドラーは少なければ少ないほど貴重なもの=友人を手に入れる。もっとも、これは「友人」とカッコを付けた方がいいだろう。リドラーとバットマンは重ねあわされているため、リドラーに「友人」がいるのであればバットマンにも友人がいるはずである。 ファルコーネを殺そうとするキャットウーマンに対しその道を渡ってしまってはリドラーと同じになると説教するバットマンは作中2度、道を踏み外しそうになる。一度目は自身の正体がバレそうになってキレた時、二度目は心を寄せるキャットウーマンが殺されそうになった時。どちらも彼を止めるのはゴードン警部だ。この役割は友人と言ってもよいだろう。
ところで、バットマンが犯そうとした過ちのうち一度目はあくまで自己の利害であり、二回目はキャットウーマン(という他人)を思いやる心から来たものだ。ブルース・ウェインにとって彼女は日常の監視活動に引っかかった不審者だった。次に協力者になり、「ファルコーネと関係なんかない」と言い張る彼女に対する興味へと変わる。リドラーにより父が犯した悪(アルフレッドは過ちと呼ぶが)を突き付けられたバットマンと、父親が悪であるキャットウーマン――その近しさが親愛の情へと変わる際に一つの出来事がある。
長年自身に仕えてきたアルフレッドへの無関心、あるいは無理解を突き付けられたことである。復讐者としての己を優先したため(携帯電話を切っていたと思われる)アルフレッドがプラスチック爆弾により命を落としかけたことを事件が発生した1時間後に知るのである。ブルース・ウェインに必要なものは父親であると知りながら復讐の手助けをすることしか出来なかったと語るアルフレッド。そのアルフレッドが父親から渡された家族の証であるボタンを渡されたときに「どうして家族でもないお前が持っているんだ」となじったブルース・ウェインは、一番近い他人を見ていなかったことを知るのである。 思えば冒頭、ゴロツキに襲われる東洋人にバットマンは声をかけようともしなかった。悪に対する復讐者である彼には、悪に虐げられる人間は見えていなかったのだ。ラスト近く、津波に襲われた被害者に手を差し伸べた彼は、ようやく復讐者を脱して正義のヒーローになったのだ。
それでも一般市民にとってのバットマンはまだ(変な)「仮面をかぶった男」である。彼には協力者が必要だ。キャットウーマンはゴッサムシティを去った。だが、この町にはゴードン警部がいる。そして彼が助けた、汚職にまみれた市政を一新することを期待された新市長もいる。 そう、ゴッサム・シティの未来には汚職とは縁がない真っ当な政府が必要だ。十余年前にJOKERに踊らされたゴッサムシティの市民は辛うじて新市長を選んだ。DARK KNIGHTのように誇るべき市民の姿はカメラには映らないが、そこにいるのだ。いなければならないのだ。