1.ポルノとは何か
「映像や言葉を通じて女性を従属させるような性的にあからさまな素材」
A.性的にあからさまな描写
B.女性であるという理由で、傷つけたり、品格を下げたり、侵害したり、侮辱したり等の行為、つまり積極的に隷属化し、人間以下として不平等に扱う。
ポルノを禁止すべき理由は次のようなものである。
a.男性がポルノを見る→女性を従属させようとする→性差別的状況が維持される→性差別的状況を反映したポルノが作られる→(以下繰り返し)
b.女性がポルノを見る→女性は男性に従属しなければならないと内面を規範づける→性差別的状況を反映したポルノが作られる→(以下繰り返し)
c.女性がポルノに出演する→性差別的状況が維持される→女性が貧困化する→女性がポルノに出演する→(以下繰り返し)
つまり、女性が男性に従属させられている社会を再生産することに対して批判が加えられているわけである。だが、ポルノ=女性差別と定義している時点で、規制してしかるべきという議論に導かれるマッチポンプの疑いが濃い。
また、我々一般人が意識するポルノと、マッキノンの言うポルノがどれだけ重なるのかといった議論が本書に見当たらないが、おそらく完全に一致するものなのだろう。
ところで、既にお分かりだと思うが、強力効果論を前提としてはじめてこの理論は成り立つ。「ポルノに害があるか」についてはさらっと流されるか当然のものとして議論は進む。
2.発話内行為と発話媒介行為
発話内行為とは発話と同時に行為を行うものであり、発話媒介行為は発話の結果として行為が導かれるものである。たとえば前者は「ロシア人お断り」の看板であり、後者は「外国人は出て行け」の街頭デモである。
どちらも表現の自由とする論者もいるが、前者は表現の自由の範囲外とする論者もいる。同じ発話でも社会的文脈によりどちらに解釈されるかは異なってくる。
ラディカル・フェミニズムでは「現在の社会は女性が男性に従属させられている社会」という社会的文脈があるという前提から、ポルノは「たんなる言葉ではない」として発話の禁止を唱える。
すると面白い(?)ことにパワハラの概念が消失する。「俺にやらせろ、さもないと首にするぞ」も「現在の社会は女性が男性に従属させられている社会」(が悪い)という前提の導入によりセクハラと解釈される。
3.「なしくずし」現象について
保坂のぶと氏の言う「戦前への道」あるいはニーメラー牧師の言葉に通ずる「一部の言論を制限することはより多くのまたは全部の言論の制限につながる」という理論について言及がある。
「たぶんカナダの平等法は地に根づいたものであり、優遇集団と不遇集団をきちんと見分けるようになっているので、無力な人にまちがって規制の矛先が向けられるということはあまり心配する必要がなく(後略)」
バトラー判決を受けたフレームワークは次のようなものである。優遇集団と不遇集団といった概念は見当たらず、実際に、同性愛者向けのSM表現も後年ジェンダー中立の名の下に規制対象(そして合憲)とされている。
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1。暴力で明示的なセックス。
2。暴力のない明示的なセックスだが、参加者が貶められていたり非人間的な扱いを受けている
3。暴力がなく、参加者が貶められていたり非人間的な扱いを受けていることもない明示的なセックス。
暴力はこのコンテキストでは"実際の物理的暴力と身体的暴力についての脅し"の両方である。
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http://en.wikipedia.org/wiki/R._v._Butler
4.素朴な世界観、単純化
「現在の女性が男性に従属させられている社会」を批判するのがラディカル・フェミニズムである。にもかかわらず、ポルノ=女性差別の禁止を国家に担わせるのがラディカル・フェミニズムである。
「女性が男性に従属させられている社会」に優遇集団と不遇集団が見分けられるのか? 理想(=原案)と現実(=妥協の結果としての法律)の差異による悪影響について検討しないのか? 反ポルノ法を権力者が乱用しない保証はあるのか?
ポルノを悪と断ずるために、それ以外の物事について単純化が行われる傾向がある。たとえば、ボスニア紛争まで性差別の憎悪表現が原因であるとするのが一つであるし、「被告の殺人者は、自分は生涯を通じてポルノグラフィを愛好してきたのだから、自分は自分の行動に責任はないと主張」したことに対して法廷戦術か否か、責任能力を本当に喪失しているのかの検討を行わないことが一つである。