物語の序盤、主人公たちがキャッチボールしている場面までに二つの違和感を覚えた。一つは映像。キャラが薄っぺらく、背景に張り付いているようだ。そんなキャラが動いている様子はまるで紙芝居だ。通行人の目鼻が省略されていたり、樹木の葉っぱの部分が一面の緑色で塗られているなど手抜きも見られる(ただし、これは序盤だけだ)。もう一つは音声だ。日頃アニメ声優に慣れてしまっているため、普通の声が素人くさい下手な声に聞こえてしまう。序盤から中盤におけるギャグシーンも劇場で観たときは大笑いしたというのに全く笑えず、むしろ痛々しい。
続くシーンではタイムリープの暗部が描かれる。魔女おばさんの「真琴がいい目を見ている裏で損をしている子がいるかもしれないわよ」という言葉が、ヒロインによって身代わりに仕立て上げられた少年がクラスメイトにいじめられるという形で現実化される。原作の小説ではタイムリープの暗部に対するヒロインの感情を描くことを行っていないのに対して、本作ではきちんと描いていると内心評価していたシーンだ。ところが再度観てみれば俺は全く勘違いしていたのであって、ヒロインが後悔しているのは「自分の身代わりで虐められた少年」に対してではなく「自分の身代わりで虐められた少年からヒロインへの(ある種正当な)暴力を、自分の身代わりに受けてしまう友人」に対してだ。しかもその後悔さえも長くは続かない。友人と付き合いだした主人公に対してヒロインは嫉妬する。
このヒロインが痛みを引き受けないという「軽さ」が気になる。例えば、物語終盤ではヒロインと主人公共通の友人が交通事故で死ぬことになるのだが、ヒロインが事故後の姿を見る前に時は巻き戻される。更にご丁寧なことに、その事故はタイムリープの直接的な影響ではなく間接的な事象の続きとして発生するようにシナリオが意図的に構築されている。観客はヒロインに自身を仮託することを考えれば、制作陣は観客を絶対安全圏に置いた上で、エンタテイメントを楽しんでくださいと言っているのだろう。おそらく、この作品の「軽さ」はそこに起因するのであり、俺が二度目の鑑賞を楽しめなかった理由はこの「軽さ」に気づいてしまったからなのだろう。
蛇足。主人公が過去に来た理由もあやふやだし、最終盤のタイムリープの残機にも違和感が残る(そこで数が増えていいのか?)。デジタル時計と残機システムがデジタル数字で表されているのが時代なのかもしれない。