来来来来来とサマーウォーズ
昨日今日と田舎を題材にした作品を続けて鑑賞する機会に恵まれた。来来来来来とサマーウォーズである。同じく田舎を題材にした作品ではあるが、両者の田舎に対するまなざしは正反対の位置にあった。
来来来来来において田舎は泥臭くねばついた空気が支配する空気として描かれている。うらさびて、荒れ果てた舞台建築からわかるように村は非開明的であり、一家の長老である婆様に主人公をはじめとする登場人物は抑圧されている。村は婆様により有刺鉄線が張り巡らされた中に存在するが、そんな婆様もまた、夫に逃げられたというトラウマにより村に縛り付けられた存在である。
対して、サマーウォーズにおいて田舎は連帯と融和に満ちた希望の地として描かれる。明光風靡な土地に住まう一族はみな切符がよく、両親が共働きの環境で育った主人公にとっては家族の団らんを感じさせる雰囲気に満ちている。それでいて、居間には大型の液晶テレビがあり、離れの部屋にはインターネットに通じたノート型PCで少年が遊んでいることが示すように外に対して開かれた空間でもある。一家の長老は夫に先立たれた婆様であるが、一家からは一様に尊敬されている人格者である。
どちらの作品においても注意すべきは、田舎を舞台にしているものの、主人公が属する一家のみが物語の舞台となっていること、周縁の社会が照らし出されることはないということだ。この意味では両作品は等しく田舎を仮想したファンタジー空間を舞台としている。
両者の田舎に対するまなざしから予想されるとおりに物語は進む。来来来来来では一家の権力の中心であった婆様が痴呆症となり、主人公に連れられて田舎から解放される。サマーウォーズでは一族総出で世界の危機と立ち向かい、ヒロインの恋人として田舎に迎え入れられる。
承認欲求
個人的に前者は納得のいく終わり方だったのだが、後者には喉にとげが刺さったような違和感が残る。それは両者の承認欲求への答え方によるものかもしれない。
前者では、痴呆症になった婆様のパンツを替えてあげると頭を撫でてもらえるというRPGのレベル上げのような機械的な形で物語の終盤に主人公の承認欲求が満たされる。一方で、サマーウォーズで承認欲求が満たされるのは、ラストでヒロインにキスしてもらえるシーン――ではなく、物語冒頭でニセの恋人として連れてこられた主人公が婆様に孫の婿として認めてもらえる場面にある。それ以降の物語は壮大な理由付け=擬態にすぎない。来来来来来では後ろ向きとはいえ主人公が自身の力で承認欲求をかなえたのに対し、サマーウォーズでは権威に認められることが承認欲求に等しいのだ。つまり、(前)近代的に見えた村で起こった出来事により個が自身を承認し、現代的に見えた村で起こった出来事により個が権威に承認されるという逆転が見られるのである。
来来来来来の脚本家である本谷有希子が描くキャラクターは個性が立ちすぎていて集団に抱擁されることを拒絶する傾向があり、いつもどおりの作風と言えるだろう。家族が崩壊した現代においての承認欲求を満たす方法としてグロテスクながらも納得できる。対してサマーウォーズは、何故、田舎の家族に包摂されるという方法による自己実現を選択したのか。
ネット社会に対する懐疑
実は、サマーウォーズの舞台はもう一つある。作品内でOZ(オズ)と呼称される仮想世界だ。インターネットを発展させたそれは、企業が3D仮想空間に店を出店し、各自治体が窓口を提供し、水道や交通管制までも取り仕切っている。OZ内のIDは1対1で実世界の人物とリンクされており、アカウントの権限がそのまま現実世界の権限に対応する。また、OZネットワークは世界中に接続されており、数十億のIDが存在する。まさにセカンドライフである。
ところが、彼らは世界が滅亡する事態に至っても、観客の席に座り続ける。無責任に煽ったり、応援したりはするものの、行動に移さない(ように見える)。正確には、世界が滅びる三分前まで追い詰められるまで行動を起こさない。物語上の都合もあるだろうが、私には監督/脚本家がネット市民の本質を観客として捉えているように思える。規範が溶解した現代で、未だ形の見えないネット社会に対する楽観的な希望よりも、過去に存在したが崩壊した規則を選んだのではないか。
だがしかし、監督も家族という崩壊した機能に頼ることを無条件で支持しているわけではないのだろう。ラストシーンで主人公が気絶したシーンは、家族にとけ込むことをぎりぎりで拒否しているように私には思えるのである。