美少女ゲームの4類型
かつて、ONEという永遠の作品があった。かつて、Kanonという奇跡の作品があった。かつて、みずいろという普通の作品があった。かつて、かつて、かつて……。そして現在の私は美少女ゲームというジャンルに食傷している。自分の好物を一週間続けて食したときの感覚といえばよいのだろうか。視覚が、触覚が、嗅覚がかつて好物であったものを拒否している。
例えば、こんな思考実験はどうだろう。完全に同一の物体しかない世界で、全く完全に一致する環境のもとで、私たちは好悪の感情を抱くことが出来るだろうか。そこでは、体調は常に万全だ。そして、均一な面光源が無限の広さを持つ白色の部屋を照らしている。私は呟く。否であると。好きなもの、嫌いなもの。両者を隔てる差異を感じ取って、はじめて私たちは感情を抱くのではないだろうか。
思えばToHeartの時点で美少女ゲームの一つの骨格は完成していた。それぞれに魅力ある複数の美少女たち。その誰を選んでもおかしくないと思える、無難で無色な主人公。少女達の苦悩とその解消――報酬としての性行為。これを主人公Aとしよう。
そのパターンA全盛の時代に現れたPhantom of Infernoは、名作でありながらもパターンAとは違った構造を持っていた。硝煙漂う非日常の世界に突き落とされる少年。人格が破壊される主人公。同じく非日常の世界に生きる少女と共闘する。吊り橋効果により高められた感情から発生する性行為。強大な敵との対峙と打破。やがて彼と彼女はかつての日常とは異なっているが、二人で生きることのできる日常へと辿り着く。これを主人公Bとしよう。
一方で、主人公の数で場合分けすることもできる。一人の男性が複数の女性との関係を持つ場合。この場合、舞台設定として並行世界が必要とされる。これは舞台Xとしよう。
もう一つは、一人の男性は一人の女性と関係を結ぶことが決定している世界。この場合、舞台設定として複数の時代にまたがるオムニバス形式が取られる。これを舞台Yとしよう。
以上を組み合わせて、美少女ゲームは4つのパターンに分けられる。主人公A、舞台Xの組み合わせはToHeart,ONEなど多くの作品が当てはまる。主人公A、舞台Yの組み合わせは銀色だ。主人公B、舞台Xの組み合わせはNitro+やTYPE-MOONの作品群が上げられる。主人公B、舞台Yの組み合わせはEXODUS Guiltyがあてはまるか? このパターン化を逆手に取った作品が『いつか、届く、あの空に』であり、序盤で主人公Aと舞台Xの組み合わせと見せかけて実は、主人公Bと舞台Xの組み合わせになっている。
ef is the story of Will.
そして、efは主人公Aの突然変異と舞台Yの組み合わせだ。主人公Aとefの主人公との違いは、成長するか否かにある。主人公が成長しないという構造にはエロゲというメディアの受動性、保守性があるのだけれども今回は立ち入らない。代わりにヒロインの立場から見た主人公Aを考えてみたい。
ヒロインからすれば、自分が成長したのだから、主人公も自分に合わせて成長してもらいたいと考えるのではないか? この問いに応えて成長する主人公、自分の意志で成長する主人公とヒロイン、それがefの最大の特徴となっている。人生の設計図を一歩先へ進める漫画家&孤独から解放され生来の活発さを発揮する少女、映すべき対象を発見するカメラマン&囚われた過去から未来へ進む少女、自分の夢を見つけ出す少年&記憶と感情の欠落から解放される少女、絶望的な未来に希望を見いだす男&過去のトラウマから抜け出す少女。成長する主人公、これはもう、主人公Aとも主人公Bとも違う主人公Cだ。
ここで逆に一つの疑問が浮かび上がってくる。主人公は成長しないのに、どうしてヒロインを助け出せるのか。このジレンマを発生させる原因はセカイ系という世界にあり、閉じた世界を強引にこじ開けていたのが奇跡という仕掛けだった(主人公Bにおける戦闘技能も奇跡のうちに分類できる)。efはこの原因と仕掛けを実にまっとうな形で解決した。すなわち、人生の先輩となる存在と、人と人との繋がりである。奇跡に頼らず、人との関わりの中で答えと思うものを自分で見つけ出し、自分の意志で進み出す主人公。これによりefはしごくまっとうな青春群像劇としての物語構造を持つ作品に仕上がった。物語メディアとして奇形であった美少女ゲームから派生したライトノベル、更にその先にefは存在している。これは美少女ゲームの進むべき道の一つではないかと思う。
ここからは補遺。efで人生の先輩としての役割を担っている人間は二人いる。雨宮優子と火村夕だ。物語の中で雨宮優子は死に(ただし、幽霊のような存在となって作中の人物に助言を行う)、火村夕は生きる。人生の先達に影を持たせる為の設定にも思えるが、物語中で雨宮優子が火村夕の成長の妨げであると認識していたことを考え合わせると、主人公の成長を語るために雨宮優子を殺す必然性があったようにも読み取れる。成長しない人間は死ななければならないのだろうか。