「どういう場合であったら、物語の途中で判断をしてしまってもいいのか」に対する試論

この試論では物語の消化%(公開された話数/全話数)を単位とできるか否かについてから考え始めようと思う。もちろん、%が高い方が誤読を導く可能性は低くなるだろう。しかし、一定の%に達すれば判断してよいとは一概に言いがたい。50%でどんでん返しを行うのも80%でどんでん返しを行うのも表現者の自由である。stay night編とunlimited works編を見て「この作品は自身が信じる正義を貫き通せという話なのだな」と判断してもおかしくはないだろう。よって、表現者に物語の意図をたずねてみるというのが正解に近いと思われる。いつどんでん返しを行うか表現者も分からないという場合も考えられるが、この場合はどの時点で判断するのが適当であるとはいえず、逆にいつでも判断してもよいと考えることができる。

さて、表現者に物語の意図を尋ねた場合において、反応は次の3つに分けられる。正しい回答をする、正しくない回答をする、答えないの3つである。最後の答えない場合については、読者は正しい答えが得られないため、いついかなるときでも判断をしてよいという結果が導き出せる。最初の二つについては、表現者ならぬ読者には表現者の回答が正しいか、正しくないかは本当には知り得ないという問題がある。しかし、回答があった時点で一応はそれを正しいとして判断せざるをえないだろうし、判断をしてよいと思う。以上から少なくとも「表現者に問い合わせて回答があったなら判断してよい」という指標を導き出せることができる。

さて、最初に誤読という観点を挙げたのだが、物語に対する誤読度合いについては「表現者に問い合わせてから回答があるまで」と「表現者に問い合わせを行わない」場合とは同じである。ここで新たな論題、「表現者の回答を得てからでないと批判できないのか」について考えたい。

表現者の回答を得るべきであると考える理由は、誤読の可能性にある。誤読により結果として表現者表現の自由=人権が剥奪される危険性についてについて勘案したものである。であれば、誤読の可能性と対峙すべきは誤読の可能性と対置すべき、ある人権が剥奪される危険性である。公開された部分のみで物語を解釈した結果として生じる、ある人権が侵害される危険性である。ルミネのCMに関していえば女性の人権を侵害する危険性であるし、境界のないセカイについては自主規制という表現の自由を侵害する危険性である。

結論。「表現者の回答を受け取ってから判断するのが望ましい。ただし、人権を侵害される危険性があればその前に声を上げてよい」