季刊セクシュアリティ47号に対する批判を批判する

間違いと失敗は、われわれが前進するための試練である。
チャイニング・ムーア・ウィリアムズ(1827年〜1910年)

セックスワーク」論が特集の主要な位置?

本誌47号をみると、特集目的の一貫性、基本的スタンスの提示、性教育実践の具体化への提起、必要な事実と現実の提示という点で、編集上、さまざまな問題点があったことを自覚し、私たちの見解を早期に表明する必要があると判断した。とりわけ売買春の合法化を主張する「セックスワーク」論が特集の主要な位置を占めたことは事実であり、特集の編集内容に問題があったことを率直に表明するものである。
【季刊セクシュアリティ48号 P113】

と断言されているが、果たして売買春の合法化を主張する「セックスワーク」論が特集の主要な位置を占めたのか。私にはそうであるとは全く思えなかった。そこで、実際に47号が「セックスワーク」論が特集の主要な位置を占めたのか検証してみようと思う。その判断の基準として、48号で浅井編集員が上げた「セックスワーク」論の論点を用いるものとする。それは、次の4つである(48号P115)。

1.そもそも性行為の売買ではなく、セックスワーク”労働”が売買されているにすぎない
2.売春は「自由意志」「自己決定」である
3.売買春について性と人格との深い関わりを否定する
4.売買春の合法化論によって、「セックスワーカー」の権利が守られ、エンパワーされる

47号の各コンテンツ

a.レディーストーク!?「おんなの性、生、声」
金子由美子副編集長、田代美江子副編集長とラブピースクラブ(女性向けのアダルトグッズショップ)代表である北原みのり氏の鼎談である。

「モテるための情報はあるが、必要な性情報が少ない。子どもたちにどう性情報を発信していくか」「メディアの中で性欲の対象がどんどん幼くなってきている感じは不気味」だという話を中心とした鼎談であり、決して「セックスワーク」論ではない。あえて言えば、田代副編集長の下記の発言(P14)が近いのかもしれない。

私は「キャバ嬢」が悪いとは思わないけれど、絡め取られる仕組みは問題だし、「キャバ嬢」の仕事も結構ハードじゃないですか。ノルマとか罰金とかで、借金が膨らむような仕組みになっていたり。

【私は「キャバ嬢」が悪いとは思わない】という発言が「セックスワーク」論を認めていると主張することもできなくはないだろうが、【私は「キャバ嬢」が悪いと思う】と言ってしまうと職業差別となってしまうため、敢えてこう言ったという可能性もあるのではないか。少なくとも、この発言から田代編集長が「セックスワーク」論を認めたというのは牽強付会であると思う。

b.性産業で働く女性達が抱える問題〜ジェンダーの視点から見た「性の商品化」論〜

「論旨もでたらめで支離滅裂であり、およそまともな論文の体をなしていないものでさえあります」(http://civilliberties.blog63.fc2.com/blog-entry-753.html)という批判が大挙して季刊セクシュアリティ編集部に舞い込んだであろう、巻頭論文である。
確かにややこしいし、途中で議論が錯綜しているように思えることは否定できない。下記に本論文の論旨をまとめた。

論旨:
A.「性労働の禁止」=売春防止法のいう「売春の禁止」は以下のものを生み出した。
A1.女性の差別化を作り出した。
性行為を贈与しない女子=「売春婦」に対する差別を生み、「売春婦」が救済の対象外となった。
A2.女性の性の自己決定権を阻害している
女性から声をかけることを禁止することは女子に受動的な性的コミュニケーションが望ましいとするイメージを作り出す。また、「不特定」の相手と「売春」することを女性にのみ禁ずることは、女性に対しして性行動の自由は許さないとする差別が存在する
A3.女性を弱者の立場に置いている
女性が個人で営業することは困難であり、安全に働くためには業者が介在せざるを得ない。そのため、業者は優位な立場として女性に接する。
B.「売春の禁止」は「女性の性を管理することによって、女性は操作可能なモノとなる」とする「女性のモノ化」を生む。
C.「性の商品化」は悪いのだから「性労働を禁止」=「売春を禁止」すべきだという考え方はかえって、「女性のモノ化」を生む。
D.「売春の禁止」は「非ホンバン」中心の産業を拡大、大衆化させた。
E.あるべき未来としては未成年者による売春と買春を禁止し、成年を対象とした売春を合法化する代わりに新たに性暴力禁止法を作る。

さて、浅井編集員による「セックスワーク」論4点が当てはまるか検証しよう。
1.本論文は売春が金品による交換=売買ではなく、贈与であると規定している。よって、当てはまらない。
2.本論文は売春合法化を主張している。ただし、現状の売春が「自由意志」「自己決定」であるいう考えではなく(上記A2)、おそらくは女性が性の自己決定権を行使できる環境を整えた上(E)で「自由意志」「自己決定」で売春できるような世界が望ましいという考え方である。よって、当てはまらない。
3.本論文は「女性の性を管理することによって、女性は操作可能なモノとなる」という考え方を否定している。性と人格との深い関わりを否定しているように解釈できないとは言わないが、「女性の性を管理することによって、女性は操作可能なモノとなる」ことを認める方も十分悪質である。これも牽強付会と言えるだろう。なお、「性と人格との深い関わりを否定する」文章がないことも申し述べておく。
4.本論文は売春合法化を明示している。しかし、浅井編集員がこの項目を否定する理由である「お金によって性的強制を求められることは合法化によっても改善されることにはならない」(48号P118)は、本論文のあるべき未来として性暴力禁止法の制定を想定していることから非難されるいわれはないと考える。

以上、巻頭論文について見てきた。本論文が「性労働の禁止」を否定したこと、売春合法化論を主張していることは事実であるが、この論文を売買春の合法化を主張する「セックスワーク」論であると考えたとすれば、本論文を十分に読み込んでいないと言わざるを得ないだろう。

c.インタビュー 要友紀子さん、ぽんぽんまるさん セックスワーカーの実態を知る

セックスワーカーの実態についての編集長によるインタビューである。主に00年の風営法改正によるデリヘル合法化の弊害、外国人セックスワーカーについての話である。セックスワーカーとしての実態を語る以上、4点セットを認めないというのも無理がある話だろう。ただし、売買春の合法化は主張していない。

d.インタビュー 生きるための選択 「ソープ」のお仕事 カオリさんの場合

金子副編集長によるインタビュー。デリヘルの危険性やキャバ嬢の厳しい実態を語っている。特筆すべきは、心とからだは切り離すことができないと主張し(4点セットの3の否定)、キャバ嬢を職業として考えないほうがいいと思っている点であろう。もちろん、売買春の合法化は主張していない。

e.売買春の現在

タイトルどおり、諸外国の売買春の法改正の動向や10代の売買春について語っている。筆者は「性の商品化」を全面的に認めているわけではないし、なかには売春合法化したニュージーランドの動向が取り上げられてもいるが、取り立てて売春合法化を主張しているわけでもない。

ここからは性の商品化論肯定の論者が続きます。

f.「プロデュース」される少女たち ―「AKB商法」に隠れる性の商品化」―

タイトル通り。

g.アダルトビデオとは何か、それはどのように作られているか

APP研の中見里先生の論文。マッキノンの本を読んだことのある人にとっては見覚えのある主張である。

h.インターネット上の子どもポルノと性搾取をなくすために

ECPAT斎藤恵子氏による、ブラジル会議の紹介。

i.子どもポルノをめぐる法的状況

欧州評議会条約とノルウェー児童ポルノ法の紹介。

47号は売買春の合法化を主張する「セックスワーク」論など主張していない

以上、各コンテンツについて見てきたが、「売買春の合法化を主張する「セックスワーク」論が特集の主要な位置を占めた」などという事実がなかったことに納得いただけたと思う。

個人的には、47号はバランスの取れたよい特集であったと思うが、季刊セクシュアリティ編集部が本誌を「考え方・スタンスの違う情報も提供するので、あとはご自身の判断で取捨選択してくださいという単なる情報提供雑誌ではけっしてない」と認識しているというのであれば、セックスワーク論を否定することについてとやかく言うつもりはない。それは完全に季刊セクシュアリティ編集部の編集権に属する事柄だからだ。

しかし、47号が「売買春の合法化を主張する「セックスワーク」論が特集の主要な位置を占めた」という事実に基づかない根拠をもとに季刊セクシュアリティを批判することは許されない。

さて、そろそろ批判の核心に近づいてもよいだろう。つまり、批判すべきは季刊セクシュアリティ編集部ではなく、浅井春夫編集員でもなく、虚偽の情報により季刊セクシュアリティを批判したAPP研である。

APP研批判 ―編集権と期待権

「特集にあたって」では「性の商品化」に批判的な特集企図を示しておきながら、またそうした趣旨でAPP研のメンバーにも論文を要請しておきながら、実際に出版された『季刊セクシュアリティ』の特集号を見ると、そうした特集企図とはまったく矛盾する、セックスワーク論にもとづく巻頭論文とインタビューとが最初に掲載されており、本来の特集企図に沿った論文はすべて後に追いやられているという異様な編集となっていました。

これがAPP研ホームページに掲げた反論である。季刊セクシュアリティが「性の商品化」に批判的な特集企図を示したとあるが本当だろうか。47号の「特集にあたって」は次のような文句で締めくくられている。「性産業に携わる人たちの差別や偏見といった古典的な道徳主義に陥ることなく、「商品化される性」の現実を知ることからスタートし、責任あるおとなとしての立場を考えるために、本号をぜひ、お読みいただきたいと思います」。もしくは47号のコンテンツeでは、このような文言が見受けられる。「私に与えられたテーマは「現代の売買春」ということだが、この問題は歴史的な時間の〜」(P45)

おそらくAPP研は「性の商品化」に批判的な論文をテーマとして依頼されたことから、季刊セクシュアリティ全体が「性の商品化」に批判的な特集企図があると勘違いしたのだろう。企画意図が論文依頼者に正確に伝わらなかったことは、48号の編集後記からなんとなく読み取れる。

APP研が自らの論文が特集から外れているかのように扱われたことに対して不満を持つこと、そのことで編集部に「これはないんじゃない」程度の苦情を言うのも理解できる。しかし「本来の特集企図に沿った論文はすべて後に追いやられているという異様な編集となっていました」と主張するとなると、話が違ってくる。この主張は季刊セクシュアリティの編集権を侵害するものだからだ。

編集権といえば、APP研の母体である日本キリスト教婦人矯風会を実体とするVAWW-NETジャパンが訴えたNHK番組改変問題が思い浮かぶ。「問われる戦時性暴力」で取り上げられる予定だったVAWW-NETの主張が気に入らない安倍晋三の横やりにより(事実かどうかはともかく、VAWW-NETはそう主張している)NHKVAWW-NETで合意されていた番組が放映されなかった、VAWW-NET期待権NHKが侵害したという訴えだ。

実際に放映された「問われる戦時性暴力」はひどかった。番組の半分が女性国際戦犯法廷を秦教授が否定するという内容で、VAWW-NETの主張が伝えられたとはとても言えないものだった。奥平先生も言っているように、編集権が強すぎるあまりに期待権が軽んじられていた(http://www.eizoudocument.com/0401okudaira.html

翻って、季刊セクシュアリティ47号はどうか。APP研の論文は欠けることなく全編が収録されている。よって、期待権は満たされている。奥平先生も言っているように、編集権と期待権はどちらか一方のみが成り立つものではなく、それぞれを両立させる必要がある)。論文の完全な形での収録以上を望むことは季刊セクシュアリティ編集部の編集権を侵害することに繋がる。また、APP研の会員が季刊セクシュアリティの読者として(おそらく)多くを占めると考えると、APP研の立場は金を左右するという意味でNHK番組改変問題における安倍晋三の立場と一致する。日本キリスト教婦人矯風会の一員であるAPP研安倍晋三と同じ行為をするなど許されるはずがない。

APP研は48号の記事と編集後記を見たのであれば今すぐに「売買春の合法化を主張する「セックスワーク」論が特集の主要な位置を占めた」という虚偽の申告をしたことを反省し、セックスワーク論の否定を強要し、季刊セクシュアリティの編集権を侵害したことを謝罪すべきである。