少女との別れ、あの日の偶像だけを追いかけてかつての少年は生きてきた――いつもの新海誠作品のテーマは健在だ。前作との違いは「ある朝、僕は新鮮な気持ちが消えてしまっていることに気づいた」という台詞に全て表されているだろう。作品を重ねるにつれて、新海誠が生きた分だけ、作品の焦点が少年時代から成年後にと移ることで軽い鬱になる成分―現実に向き合うことが求められてきていると感じた。
小中学校時代東京に住んでいて、転勤で地方に行って、就職で東京に戻ってきた人間としては、同じような遍歴の主人公と自分を重ね合わせる部分があります。やっぱり、あの頃住んでいた場所には格別の思い入れがありますね。実は何年かに一度は訪ねていて、最後に行ったのは社会人一年生のときです。あの春は遠くなりにけり。ほんと、どんどん遠くなっていきます。
以下ネタバレ
物語の最初と最後、少年と少女が、踏切のこちらがわとあちらがわで互いを見つめているという描写がある。リフレインと対比だけでも理解することができるのだけれども、語り足りないと思う点がある。
舞台となっている踏切は駅名から小田急線豪徳寺の近辺と分かるのだけれど、ここらは一度踏切が閉まると5分から10分待たされることもある場所だ。劇中の描写だけだと二台の電車が続いて通りすぎる1分にも満たない時間で彼女は立ち去ってしまった、と思ってしまうだろう。
だけど(見晴らしのよい場所なので)それだけの時間で画面から消えてしまうのは不自然だ。先ほど踏切で5分から10分待つと書いたけれども、その間ずっと視界が遮られているわけではない。半分は電車が通っていない時間だ。もしかすると劇中では語られなかった時間のなかで、お互いの顔を見ることができた二人が挨拶を交わしたかもしれないし、ばいばいと彼女が手を振ってくれたかもしれない。そうでもないと、彼女が立ち去ったことに気づいた彼が悔恨のない爽やかな顔で明日に向かって進み始めるなんて思えないじゃないか。
なんてことは「踏切で何分も待たされる」経験がある人でなければ分からないと思う。第三話の踏切のシーンは時系列が乱れているので、そこを表現してくれたらなあと思った。そりゃあ、俺が穿ちすぎているだけなのかもしれないけどさ。
(3/5 8:00追記)いや――この線はないや。振り返る前は嬉しそうな顔してなかったから。嗚呼、ますます鬱になる。