歴史認識問題について

http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20081215/p1とかhttp://blog.sakichan.org/ja/2008/12/15/not_issues_on_the_interpretation_of_histとか。

学術的には分かる。東氏の議論に沿って主張すればこうなる。

A.いまの日本社会に、東浩紀は批評家の責任を果たすべきだと断言するひとと、そのような責任はないと断言するひとがそれぞれかなりのボリュームでいるのは事実である(この場合の批評家の責任は例)。

B.ポストモダニズム系リベラルの理論家は、「公共空間の言論は開かれていて絶対的真実はない」と随所で主張している。

C.だとすれば。ポストモダニズム系リベラルは、たとえその信条が私的にどれほど許し難かったとしても、東浩紀は批評家の責任を果たすべきだと断言するひとの声に耳を傾ける、少なくともその声に場所を与える必要があるはずである(この場合の「耳を傾ける」=「同意する」ではない)。

C'.逆に、もし「東浩紀に批評家の責任があるがなどと考えるなどとんでもない」と鼻から言うのであれば、そのひとはもはやポストモダニズム系リベラルの名に値しない。

C''. むろん、上記の主張は、右と左を入れ替えても言える。

うん、わかる。学術的には。でも、東浩紀は批評家の責任を果たすべきだと断言するひとに与えられる場所に対するコメントに、所産俺ははてな村の一住人なのねと虚しさを覚える。

「ぼくは最近、2ちゃんねるはてなブックマークもなにも見ていません。精神の健康によくないからです。ですから、この件がはてなで話題らしいというのは、先週の授業のあと学生から直に聞きました。そういうわけで、ここでは伝聞を根拠に「こんなこと書けばいいのかな」ていどのことを書いているので、もしかしてブログ論壇的には的外れなのかもしれません。ただ、そもそもはこれはだれかに反論するためではなく、ぼくの立ち位置を明らかにするためのエントリなので、これで勘弁を。」

東氏はもちろん、批評家という肩書きの影響力を知っていてなお、ポストモダンの世の中では批評家なんてたいしたことありませんよと言うと思われるので、更に虚しくなる。