階段を上っている最中、尿意をもよおしたのでトイレに駆け込んだ。
「よっ、おはよう雛梨」
「おはようございます、先輩」
鏡とにらめっこして髪型をいじくっている後輩に声をかけて個室に駆け込む。
ズボンとトランクスを一緒に脱いで便器に腰掛けると、限界がやってきた。
じょぼぼぼじょぼぼじょぼぼ。(中略)じょぼ、ちょろ、ちょろ。
落ち着いたところで、雛梨がパジャマ姿だったことを思い出した。
「雛梨、まだいるか?」
「はい」
「ゆっくり支度しているみたいだけど、HRに間に合うのか?」
「先輩に心配されてしまいました……雛梨、感激です」
感激してる場合じゃないと思うんだけどな。
「大丈夫ですよ。いざとなったら女子寮から校舎まで一っ飛びです! こういうときは三階にある一年の教室は便利ですよね」
建物から建物へ飛び移って無事なのは救世の勇者くらいなので一般の人は真似しないでください。
「先輩? 聞いてますか先輩?」
「聞いてるぞー」
「先輩……はて?」
雛梨が首をかしげた。(見えないけど、たぶん)
「ここは女子トイレですよね? わたし、間違って男子トイレに入ってたりしないですよね?」
「うん、ここは女子トイレだよ」
女子寮だからって男子トイレが一つもないのはどうかと思う。
「安心しましたっ。雛梨、うっかり男子のさらし者になっているかと思いましたっ。女子トイレに女子がいるのはとても自然なことですよね!」
その口調はうちの母親に似すぎているのでやめていただきたい。あと、せっかくの個室なので大も出してしまおうと思う。
「そうか、ここはやっぱり女子トイレ。って、きゃーーーーっ」
女子寮全体に響きそうな悲鳴が上がった。
何が起こったのか分からず、俺は個室を飛び出した。スリッパを片手に持ち上げた姿勢で問いかける。
「どうした雛梨!? ゴキブリでも出たのか?」
「ゴキブリが出るのは台所です!」
突っ込みをいれた雛梨の視線が俺に注がれる。その瞳が、ゆっくりと、恐怖に彩られていった。
その瞳は。生まれつき虚弱だった俺の体が治療されたとき、交通事故にあってはじめて目覚めたときの、馴染みのある色で。震える体を抑えることができない。
「雛梨。お前なら、俺のことを理解してくれると思っていたのに……!」
「!」
はっ、と雛梨の瞳に悲しみの色が宿る。だが、俺の見間違いだったのかもしれない。俺がそうと感じたのは、ほんのまばたきほどの時間だったからだ。
「違います。雛梨は先輩を嫌ったりしてません」
でも、彼女の瞳は彼女の言葉を裏切っていた。嫌いなもの、目にしたくないもの、汚らしいもの見る目だ。
「いいんだ……所詮、俺は人間もどきなんだから」