秋葉原事件と宮崎容疑者の死刑執行について思う

宮崎勤の部屋には数千本のビデオと大量の漫画が所狭しと並べられていた。比して加藤智大の部屋は殺風景で、数冊の同人誌が置かれている程度だったという。犯行時の年齢としては2歳という僅かな違いの両者にあるこの格差。

宮崎容疑者自身はオタクと呼ばれるほどその方面に耽溺してはいなかったため、オタクは安心してオタクは心優しいとか事件を起こしたりしない存在だといった言を紡ぐことが出来た(表現の自由スレによく見られなかったか?)。そう、これは過去の話だ。加藤容疑者は数冊しか同人誌を持っていなかった。オタクなら数冊程度ではすまない。だからオタクじゃない? 

いや、一般人からすれば同人誌を持っていたという時点でオタクと認識されるし、オタクという方向性に対する親和性があったと認識すべきだ。少なくとも彼は、秋葉で中古ゲームソフトを売って三万円を入手している。一本2千円〜4千円として、最低でも8本から15本のゲームソフトを彼は購入していた。これも数が多いとは思わないが、借金を放り出して逃げ出した知らぬ土地で、月十数万の収入の中から、彼が選んだ選択肢にそれらのゲームソフトは含まれていた。

では、彼はオタクなのか? 俺は敢えて言う。数冊程度ではオタクにはなれないと。

毎月発売される無数のコミックから複数を購入し、毎月発売されるアニメ作品のDVDを単価が高いと文句を言いながら購入し、毎月発売されるゲームの中からどれを買おうかとなかば義務のように購入し、資産を消尽してようやくオタクの称号を関することができるのだと(自分で作品を作れる人間がオタクなんだ、という定義はここでは考えない)。宮崎容疑者は金はあった。オタクになれる環境にあった。だが、加藤容疑者には金がなかった。オタクになれる環境になかった。

俺はオタクでいられる自分の環境に歓喜の声を上げ、いつオタクから転落するともしれない自分の人生に怨嗟の声を上げる。