井上明人 産業形態の地域文化をめぐる仮説構築の試み
より具体的問い
・80〜90年代の日本の優位性。日本でのブームと、マリオ以降の定着
・成立期のズレ
欧米 ゼロ年代の伸張
アジア オンラインゲーム
日本 オンラインゲームは流行ってない?
内容面・社会的変数による説明がいくつもある。
説明変数が多く、クリアな説明が不可能。話の水準を上げることが今回の目的。
<説明の例>
・遙か昔の文化要因→江戸時代から続いていた証拠は?
・日本人の心理的要因→検証不可能で、中途不可能なナショナリズムを引き出す
・マンガ/アニメとの接続 (省力化の技法)
・人材・コンテンツ基盤
マリオ宮本氏、ゼビウス遠藤氏、ドラクエ堀井氏、みんなアニメ/マンガ文化の影響
・主要企業の戦略
ATARIショックの原因=質の低いゲームの反乱、一方任天堂はゲームを選別していた、には疑問の余地がある
・ゲームデザイン
アーケードゲームのノウハウがファミコンブームへの移行を助けた
・イノベーションのジレンマ
□日米の産業構造の違い
自動車はすりあわせ型、PCは水平分離、的な話
□ピンポイントに産業を移行できない
日本の雇用システムは文脈依存型で会社の中でゼネラリストを養成する
アメリカは標準化した能力をどう高めるかを考える
教育やその他の政策も関わってくるため、ある方向に産業を移行させるのは困難
□日本はコンシューマーが強い
小売り流通etcがコンシューマーに最適化して構築された
・コミュニケーションプラットフォーム説
爆発的な流行の原因を説明している
「本論」井上仮説
所得水準による経済依存の発生
ゲームプレイ頻度が低い場合
アーケード<<コンシューマ<<PC
ゲームプレイ頻度が高い場合(1)
アーケード>コンシューマ<<PC
ゲームプレイ頻度が高い場合(2)
アーケード>コンシューマ>PC(ネット喫茶含む)
地域の経済依存性
MMORPGの費用構造+ビジネスモデルは、コンシューマが普及した日本では競争性ある財と捉えられてなかった
他コンテンツとの比較
マンガ:日本最強だが、他国の市場規模小さい
アニメ:他国の市場規模小さい
課題
・非正規の流通形態を考慮していない
・マーケットサイズと個人の利用時間が一致しない
米光一成 集団政策としてのゲームはどう変わってきたか
ビッグバン〜コンパイル退社
137億年、ビッグバン
1982年、コンパイル設立。コンピュータショップにたむろしていたメンバーで設立。最初のソフトは業務用ソフト「イタリー亭」。近くにあった同名の顧客管理ソフト?
ファミコンの頃がゲーム業界一番ぼろかった。当時は納期がなかった(笑)
1987年、初の企画職としてコンパイル入社。スケジュール管理する必要が必要だけど、スケジュール管理というと人が来ないから企画と言って獲得した。当時のコンパイルはマンション2部屋を借りて、片方の扉を開けると社長の奥さんが出てきた(笑)
1988年、組織編成。スポンサー、社長、米光、メンバーという構造の確立。ただ、当時のテストプレイヤーはそこらへんの大学生、専門学生だし、経理は社用の奥さんだったくらいには緩かった。
1988年〜1990年まで、一年に3本のペースで開発
1990年、スーファミ発売。ドラクエ4、FF3。当時のコンパイル新人研修の「コンパイルの歴史」ビックバンから始まってコンパイルの未来を語る。目標1.プラスチックを溶かす。目標2.ロケットを打ち上げる。目標3.忘れた。
1991年、ぷよぷよ発売。最初は『ひとひと』人類愛を目指していたが、プログラマーから「同じ肌の色しか手をつながないんですね」と言われてぷよぷよに変更。メインの仕事以外に、放課後のノリで作っていた作品。
FF1('87)12名、FF2('88)12名、FF3('90)41名、FF4('91)64名
1992年、コンパイル退社、スティング入社。社長との喧嘩もあり、ファクトリー化に耐えられなかった
ファクトリー化の歴史
・1982年。グラフィック・PG・SG
・1987年。上記+企画監督
・1991年。上記+脚本、広報営業、連携先
スティング入社
1992年。年に二本。1993年。年に一本。
1996年。3年かかってトレジャーハンターG。エグゼクティブプロデューサー坂口、プロデューサー/企画監督米光、プログラマー(イベント、バトル、etcへ分業)、グラフィックス、サウンド、テストプレイヤー(30名3交代制)、モデラー、3DCG、合計150名のプロジェクト
1999年。BAROQUE発売。企画監督脚本を担当。
2001年。スティング退社。カメラ付メール端末対応のラブeメール開発
2002年。「ネットワークでコミュニケートしながら1回5分で遊ぶネットゲーム」の企画に対する反応
・そんなの誰もやらない。今はMMORPGだよ。MMORPGなら3億出せるよ
・そういうのは儲からないから上に通せない(億に届かないと見てもらえない)
このときの憤りが『プロジェクト攻略法』を産んだ
総合討論
欧州70,80年代にコンシューマ機の開発あった?
(井上)70,80年代にコンシューマの開発があったとは聞いてない。誤解を生んだとすれば謝ります。
(参加者)ゲーム機はESが出していた。ゲームを作って自分で遊べるPCがあった。
(井上)MUD(マルチ・ユーザ・ダンジョン)はイギリスであった。
(参加者)イギリスではケンブリッジにある会社のBBCが作っていた。プロシージャ系ではよく引用される。
ゲームの多くは経済的理由で決めてない。
(質問者)ゲームする動機として、経済的動機はないのでは。ボーダーブレイクで付き5〜6万使う人もいる
(井上)これから煮付めていくとすると、価格への主付けとは別の重み付け、どちらが強いのかトータルでの影響を見せることができればと思い舞うs。ご指摘ありがとうございます。
開発規模が大きくなると、ゲームが作りづらくなるというが本当か。
(米光)直感的にそうなる。人数少ないと仲良くできるけど、100人いると誰だお前となる。派閥ができたり、ゲーム開発でない組織論が必要とされる。
コンパイル開発者でユニークな同人ゲーム作っている人が多いのは
(米光)えぇ?(笑)DISC STATIONがファクトリー化している中でも小さいゲームを作る機会を作っていた。あと、後半に人多く入れたので、確率的に多いだけ
日本のゲーム市場における任天堂以外の専用機、たとえばぴゅう太をどう位置づける?
(樺島)日本は研究してないです。記憶から話をすると、メディアが雨後の竹の子のように勃興したあとで淘汰される、そこにどういう決めてがあるのかが興味あるところです。
コレコビジョンが一緒になくなったのは?
(樺島)前からコンピュータモジュール出す出す言ってたが、いつまでも出なくて国の機関に怒られたり。コレコ、マラルはシェアが取れなかった。不利な環境を取り返すだけのイノベーション起こさなかったので共倒れ。
他の講演者が話された中で何かあれば
(井上)樺島先生の話でリテラシーの話があったが、85年86年にリテラシーあるユーザがいたのか。小学生だし。TV、ゲーム雑誌の動員で動くようなユーザ。ファミコンのクソゲーで有名どころあるし、ユーザリテラシで説明するのも一つの視点だがマリオブームで徳間書店が攻略本、ゲーム雑誌を出して85年86年に専門誌ができて流通の中間的部分としてこれいいじゃない程度のフィルタでうまくいったという仮説はどうか
(樺島)まさにインターネットない世界では業界紙は大切。それによってコンテンツの質を探って選択してゆくことが非常に重要。それが増えて細分化し、リテラシが上がる。
(米光)ATARIショックのとき、専門誌は一誌?
(樺島)不定期発行から定期になった。80年代後半から雑誌が出てきたが、80年代末には売れなくなるのでタイミングが遅かった。
(井上)日本がゲーム雑誌を育てられたのは何故か。
(小山先生?)日本のゲーム雑誌の出版仮定。ドルアーガ、マリオの攻略本からファミコンマガジンへ。カタログ情報ではなく、後略が先にあった。ゲームの中身を吟味するのはずいぶん後の話。ドラクエ2やゼルダの後略情報で強い情報選別をしていた。80年代の後半に今の形の雑誌の形になる。
(樺島)ゲームのレベルの違いも。ATARIには攻略本いらない。84年のアメリカの雑誌をミルとレビュー中心で業界全体の動きとか多い。アメリカもショックがなければまた違う動きがあったと思う。
(吉田)ジャンプ情報局の後押しがあったのでは。
(井上)日本の場合アニメ・マンガ雑誌があり、そのリソースに乗っかるかたちで流通できた。一方、アメリカはハリウッドがある。情報流通が弱かったのか、利用できなかったのか。
(樺島)ATARI後半は映画ライセンスが多い。親会社が押すケースも……
(米光)ない。ゲーム作っている人間としてない。所詮ゲームとして見ている時代。作らせてやっている程度もなかった時代。
(樺島)売り手側の広告使ってE.T.死んだ。第三者なり、信頼できる人でないといけない。
(米光)日本は任天堂様が作らせてくれなかった。マリオでも最初はそんなに作ってない。あの当時の雑誌がガイドになっていたか。逆ガイドにはなっていたかもしれない。
(吉田)当時はジャンプ情報局が好き勝手辛辣なことを言っていた。広告受けると非難できない
(米光)情報もらわないと攻略法をかけないのでしがらみができる
(樺島)アメリカはバブルの麻薬の部分もあった。PACMANはVCSの累計売り上げより多く作って売り切った。アメリカに進出した任天堂は自身で雑誌『ニンテンドー・パワー』を出した。子どもにわかりやすく紹介していた。
(米光)任天堂の存在がでかい。ちゃんとゲーム出しているのは大きい。特に80年代。
(井上)実感としてそうなんだろうとは分かる。任天堂がそういう会社になれたのは何故。ATARIショックの教訓か。任天堂のソフトがクオリティ高いものを作っている仕組み、プロセスは。
(米光)任天堂はトランプがあるから大丈夫なんだ。そこが売れているから初期売れなくても、余分の感覚があり、無理してまで一発当てなければならないという思いがない?
(樺島)任天堂=メジャー。自分でコンテンツ管理、流通管理。混乱期でビジネス完成させたポジション。任天堂が存在したからこそ、ユーザのリテラシがある。次はメジャーの誕生で研究しようかと思っている。任天堂は山内さんすごいで語れてしまう。属人的か、ポジションか、ビジネス方法か
(米光)ゲーム作る能力よりゲーム環境を作る能力。
(吉田)外国でゲームを売る企業のターゲットは?
(樺島)子ども向け。ATARIショックの崩壊後に「世界初のアダルトゲーム誕生!」とビルボードで一代広告打つアダルトゲームがある。
(吉田)日本はアーケード(アダルト)と任天堂(子ども)、二つの客層がスタートラインで存在した。麻雀、教育ゲーム、かけごと、普通のゲーム、産業として色々狙いやすかった。
(米光)僕は僕が遊びたいの作ってた。自分幼かったのでキッズになっていた。キッズだけではないのは大きかったかも。ファミコン出た当時大学生やってたので。そこがリテラシという面で馬鹿にできない
(樺島)アメリカでもアーケード移植は王道。アステロイドとか。クリスマス商戦=親が買う、子どもがこーゆーものが欲しいという認識があったのでは
コンテンツ文化史学会 第2回例会「ゲーム産業は、いかにして成立しえたのか――アメリカ、日本…草創期に何が生じたのか」
例によってだいたいこんなこと言ってたみたい、程度で捉えてください。
井上明人 産業形態の地域文化をめぐる仮説構築の試み
米光一成 集団政策としてのゲームはどう変わってきたか
樺島栄一郎 コンテンツ産業の段階発展理論から見るアタリショック(ほぼレジュメ通りのためメモしてません)
総合討論